(1)初等、中等教育に「ゆとり教育」を導入して国際学力比較で日本の子どもの学力低下があきらかとなったとかで、今度は土曜日も授業を実施して授業時間を増やす必要性も主張されて、文科省の試行錯誤といえば聞こえがいいがつまり時代性を反映した場当たり的な教育方針の右往左往性こそが教育の本質論を見失っている。
初等、中等教育は基礎学力育成時代で、習慣性のある学習態度、生活、意欲を集団性の中でともに持続、継承する教育現場が特徴だから、出来るだけ多くの時間を学校、教師と過ごして知識、経験、未知なるものと遭遇する発達途上の年代だ。
(2)ここでの評価はあくまで到達度調査であって個々の能力評価ではない。体力も含めて成長途上まもない過程にある初等、中等教育課程は、早いスピードで変化し続ける一過性の中にあるもので、その一点をとらえてする絶対評価など意味も意義もないものだからだ。
(3)文科省はゆとり教育を受けて自由参加方針とした小学6年、中学3年の全国学力テストを学力低下の危機意識の中で4年振りに全員参加として今年度実施した。
その結果が公表されたが、これまでの同テスト結果上位県、下位県の変動はなく固定化され、全体として学力は底上げされたが、応用力(applied power)を問う解答能力は依然低く改善は見られない結果講評(報道要旨)だった。
(4)スピードのある成長過程の初等、中等教育を対象とした学力テストでのひとつひとつの能力評価そのものが不必要で意味、意義のないものであるうえに、「応用力」を問うなどとは、これからのスピードのある成長過程の中で知識、経験、体験、次々との未知なるものとの遭遇の中で培(つちか)われて身につけていくものであって、この段階で知識組み合わせによる技術力で応用力など判断、評価するものではまったくないものだ。
(5)学力テストによる成績上位常連県の取り組み、対策はよく分析、検証する必要はあり、子どもの成長過程にふさわしく標準化されたものは全国的に参考にし取り入れていくことは大切なことではある。
むしろ学力テストの効果、評価としては、そういう積極的で向上的な教育現場の取り組み、方法論を標準化(standardization)することにこそ意味、意義がある。
(6)ほぼすべての科目で1位の秋田県には、全国の小、中学校から教師の研修派遣が続いているとの報道もあり、単に教育偏重主義に陥らない持続性、継承性のある成長過程を見守る教育力の確立、標準化が必要だ。
初等、中等教育は基礎学力育成時代で、習慣性のある学習態度、生活、意欲を集団性の中でともに持続、継承する教育現場が特徴だから、出来るだけ多くの時間を学校、教師と過ごして知識、経験、未知なるものと遭遇する発達途上の年代だ。
(2)ここでの評価はあくまで到達度調査であって個々の能力評価ではない。体力も含めて成長途上まもない過程にある初等、中等教育課程は、早いスピードで変化し続ける一過性の中にあるもので、その一点をとらえてする絶対評価など意味も意義もないものだからだ。
(3)文科省はゆとり教育を受けて自由参加方針とした小学6年、中学3年の全国学力テストを学力低下の危機意識の中で4年振りに全員参加として今年度実施した。
その結果が公表されたが、これまでの同テスト結果上位県、下位県の変動はなく固定化され、全体として学力は底上げされたが、応用力(applied power)を問う解答能力は依然低く改善は見られない結果講評(報道要旨)だった。
(4)スピードのある成長過程の初等、中等教育を対象とした学力テストでのひとつひとつの能力評価そのものが不必要で意味、意義のないものであるうえに、「応用力」を問うなどとは、これからのスピードのある成長過程の中で知識、経験、体験、次々との未知なるものとの遭遇の中で培(つちか)われて身につけていくものであって、この段階で知識組み合わせによる技術力で応用力など判断、評価するものではまったくないものだ。
(5)学力テストによる成績上位常連県の取り組み、対策はよく分析、検証する必要はあり、子どもの成長過程にふさわしく標準化されたものは全国的に参考にし取り入れていくことは大切なことではある。
むしろ学力テストの効果、評価としては、そういう積極的で向上的な教育現場の取り組み、方法論を標準化(standardization)することにこそ意味、意義がある。
(6)ほぼすべての科目で1位の秋田県には、全国の小、中学校から教師の研修派遣が続いているとの報道もあり、単に教育偏重主義に陥らない持続性、継承性のある成長過程を見守る教育力の確立、標準化が必要だ。