(1)NHKがまた「やらせ(purposeful fabrication)」疑惑問題で揺れている。かっては海外取材報道番組で「やらせ」が発覚して、受信料不払い連鎖が起きて放送経営に打撃を受けたことがある。
今回問題になっているのは、夜7時30分からの報道検証番組「クローズアップ現代」で出家詐欺事件のブローカーを仕立てて「やらせ」があったのではないのかと指摘された問題だ。
(2)番組内で「ブローカー」と紹介された当人から「自分はブローカーではない」と申し出があり、NHKが調査委員会を設けて調べていた。結論は「ブローカーと信じる一定の理由がある」が「断定的に伝える裏付けはなく」、「事実を伝えることよりも、決定的なシーンを撮ったように印象付けることが優先され、『過剰な演出』が行われた」と指摘した。
大変まわりくどい説明で「事実」を包み隠すかのような過剰な言い回しで、結局何を言いたいのかわからない表現になっている。同調査内容ではブローカーと思える(思ってしまう)けれども、証拠はなく確かめもせずに番組演出効果を高めるために都合よく使ったということだと思うが、報道検証番組としては信頼性を損なういいかげんな取材にもとづく報道であったということだ。
(3)これだけ見ればたしかに「やらせ」ではないかもしれないが、事実にもとづく報道検証番組としてはあってはならないおそまつな番組取材構成で、視聴者の信頼を裏切る不十分で安易な取材行為、報道姿勢であったわけだ。
報道は事実をありのまま伝えて問題、課題、取り組み、影響、解決を模索して考えて、政治、経済、社会、生活全般で今何が起きているのか、どう向かおうとしているのか今日的テーマを提供するものだ。
(4)「やらせ」や未確認情報、創作で事実をつくり出されては、その取り組み、認識、解決の方法論(methodology)を見誤り、現実に起きていることを違った方向性に関心を向かわせる重大な誘因、誘導になる。
「活字」の新聞や「言葉」のラジオ報道は、事実、真実を伝える直接的手段、証拠提示は取材のそれがすべてであり、一方、「映像」で伝えるテレビ、ネットでは直接的手段として証拠事実を提示、提供することは、その機会も含めて的確で肝要なものに巡り会うこと、出会うことは限られて多くはない。
(5)事実をわい曲しない範囲内で「演出(produce)」があるのはテレビ構成上、機能上やむをえない要素でもある。そこで「やらせ」なのか「(過剰な)演出」なのか仕切りの判断になる。「やらせ」も「演出」の一方法という見方もできる。
ただしそれが許されるのは、まずフィクションであり、ノンフィクションであれば「断り」が要るだろう。そうでなければ「映像」によるTV報道の仕組みには自ずと限界が敷かれて、「報道の自由」に制約も強くなる。
選挙報道で自民党がこだわる政権に批判的な意見ばかりを取り上げるのも、「演出」であり「やらせ」(の概念)である。
(6)わかりやすく言えば、ニュースの「再現」方法というのは事実をわい曲しない「やらせ」である。
事実をどうわかりやすく伝えるのかも報道の方法論、手法論であり、そこに至る「断り」と事実をわい曲しない報道責任とシナリオのつくり方だ。
今回の「クローズアップ現代」ブローカー問題は、事実の「やらせ」でもなく、だから「演出」などでもなく、事実誤認であったとする可能性が高い(当人がブローカーでないと言い、調委もこれにあえて言及していない)。
司法上は、捜査「手法」に間違いがあれば事実とは関係なく不適法と判断する。
今回問題になっているのは、夜7時30分からの報道検証番組「クローズアップ現代」で出家詐欺事件のブローカーを仕立てて「やらせ」があったのではないのかと指摘された問題だ。
(2)番組内で「ブローカー」と紹介された当人から「自分はブローカーではない」と申し出があり、NHKが調査委員会を設けて調べていた。結論は「ブローカーと信じる一定の理由がある」が「断定的に伝える裏付けはなく」、「事実を伝えることよりも、決定的なシーンを撮ったように印象付けることが優先され、『過剰な演出』が行われた」と指摘した。
大変まわりくどい説明で「事実」を包み隠すかのような過剰な言い回しで、結局何を言いたいのかわからない表現になっている。同調査内容ではブローカーと思える(思ってしまう)けれども、証拠はなく確かめもせずに番組演出効果を高めるために都合よく使ったということだと思うが、報道検証番組としては信頼性を損なういいかげんな取材にもとづく報道であったということだ。
(3)これだけ見ればたしかに「やらせ」ではないかもしれないが、事実にもとづく報道検証番組としてはあってはならないおそまつな番組取材構成で、視聴者の信頼を裏切る不十分で安易な取材行為、報道姿勢であったわけだ。
報道は事実をありのまま伝えて問題、課題、取り組み、影響、解決を模索して考えて、政治、経済、社会、生活全般で今何が起きているのか、どう向かおうとしているのか今日的テーマを提供するものだ。
(4)「やらせ」や未確認情報、創作で事実をつくり出されては、その取り組み、認識、解決の方法論(methodology)を見誤り、現実に起きていることを違った方向性に関心を向かわせる重大な誘因、誘導になる。
「活字」の新聞や「言葉」のラジオ報道は、事実、真実を伝える直接的手段、証拠提示は取材のそれがすべてであり、一方、「映像」で伝えるテレビ、ネットでは直接的手段として証拠事実を提示、提供することは、その機会も含めて的確で肝要なものに巡り会うこと、出会うことは限られて多くはない。
(5)事実をわい曲しない範囲内で「演出(produce)」があるのはテレビ構成上、機能上やむをえない要素でもある。そこで「やらせ」なのか「(過剰な)演出」なのか仕切りの判断になる。「やらせ」も「演出」の一方法という見方もできる。
ただしそれが許されるのは、まずフィクションであり、ノンフィクションであれば「断り」が要るだろう。そうでなければ「映像」によるTV報道の仕組みには自ずと限界が敷かれて、「報道の自由」に制約も強くなる。
選挙報道で自民党がこだわる政権に批判的な意見ばかりを取り上げるのも、「演出」であり「やらせ」(の概念)である。
(6)わかりやすく言えば、ニュースの「再現」方法というのは事実をわい曲しない「やらせ」である。
事実をどうわかりやすく伝えるのかも報道の方法論、手法論であり、そこに至る「断り」と事実をわい曲しない報道責任とシナリオのつくり方だ。
今回の「クローズアップ現代」ブローカー問題は、事実の「やらせ」でもなく、だから「演出」などでもなく、事実誤認であったとする可能性が高い(当人がブローカーでないと言い、調委もこれにあえて言及していない)。
司法上は、捜査「手法」に間違いがあれば事実とは関係なく不適法と判断する。