いのしし くん。

政治、経済から音楽全般の評論
ultimate one in the cos-mos

デジタル読解力。(OECD)  digital literacy

2011-06-30 19:48:26 | 日記
 (1)発達成長途上の子どもの一時期の学力、体力にランクを付ける無意味、不確定、不確実は、子どもの普遍的な成長力の高さを見れば明らかだ。
 OECDが世界の15才を対象にした学習到達度調査(PISA)で、ネット社会のグローバル化にあわせて初めてデジタル読解力(digital literacy)の調査結果を公表した。

 トップが他を大きく引き離して韓国、ニュージーランド(2位)、オーストラリア(3位)のオセアニアに続いて日本が4位となった。そのあと、教育立国の北欧圏が続く。
 分析では、日本はデジタル読解能力に上下位の振幅はばが少なく平均化(平均を20点上回る)しているのが特徴だ。

 そもそも、成長発達途上の子どもの授業でのコンピュータ化の教育環境も違う各国教育事情の中での主観的な統計結果だ。日本の場合(15才対象)、授業(国語、数学、理科)でコンピュータを使っている比率が1~2%と低く、OECD平均の16~26%を大きく下回って調査対象国、地域では最低であった。

 (2)教育というのは、各国の文化、歴史、国民性、経済、社会の構成、水準によって、取組み方、理念、段階、習熟、ステップアップも独自性、適応性、特徴のあるもので、一概に単純比較検証の出来にくい分野だ。

 近年、先端的研究開発の進化のためには教育の「基礎学」的分野の充実の必要性が指摘されて、応用力、創造力、発想力の大切さが主張されている。
 教育と研究は一体系のものではあっても、研究の「進化(evolution)」に比較して、教育には「普遍的な基本基礎知識」の育成、発達、成長という原点、土台、基礎となる学問の普遍性(universality)がある。

 時代の変化、進化にあわせて「教育」のツール、仕組みも進化、変化するものだし、逆にそういう時代だからこそのマンツーマンの師弟の哲学問答のような授業形態、かっての「寺小屋」形式の授業に原点回帰することが見直されてもいい自由、振幅が「教育」にはある。

 (3)21世紀に入って、教育の有り様にも試行錯誤があらたに試されている。詰め込み教育からゆとり教育に振り子が動いて、成果、果実ばかりを追って結果がともなわなければ、今度は充実教育にシフトするカリキュラムだ。

 成長発達途上の子どもに、すでに結果を求める「教育」、それを比較検証、開示する「機関」の連鎖が、教育の本質論をパラドックス(paradox)として浮き上がらせてくる。

 (4)日本の研究機構は、最近、世界最高水準の処理機能を有する巨大(huge)コンピュータを開発した。
 ネット社会(パソコン、ケイタイ、iphone、電子書籍)に生きる現在子どもに授業のコンピュータ化を推進することは、読解力、理解力促進の世界的流れでもある。

 しかし、子どものデジタル読解力が比較低いからと言って、それがすべての結論、結果でもなく、日本の文化、歴史、国民性の伝統に育(はぐく)まれた教育力は、成長とともに先端的科学技術開発力、経済力で世界をリードする側面もあわせ持つものだ。

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政治が振り回されている。 brandish politics

2011-06-29 19:44:51 | 日記
 (1)「安定的に引き継ぐということで、私個人が何かを得たいと言うことではない」。3法案の成立までの続投を決めた首相のおかど違いの本末転倒、錯誤の政治認識論だ。もっと率直に真意を述べたらいい。
 この首相の詭(き)弁、唐突、厚顔には、あきれを通り越してあわれさえ感じる。政治が野望に振り回されている(treachery brandish a politics)。

 3党合意を拒否しての80日間の通常国会の会期延長を首相自ら押し通しても、パラドックス(paradox)としてこのために国会は機能せずに3法案の協議成立の見込みはまったく不透明のままだ。
 退陣表明の首相には、国内外ともにこれからの重要政治日程、課題へのアプローチ(approach)もなくて、国政の停滞を加速して国益を損なっている毎日だ。

 仮に「私個人が何かを得たいと言うことではない」かもしれないが、そのため国益が失うものが比較大きくて、退陣を表明して党結束のもとに内閣不信任案を否決した段階で新体制に引き継ぐことが、まだしも政権を「安定的に引き継ぐ」ことであったし、大連立により3法案の成立にも貢献できた可能性が大きかったのだ。

 事態を自らの手で混迷に導いておいての逃げる道、風穴を閉ざした強権性は、言葉とは裏腹の権力(首相)を振りかざした野望政治への「しつこい」ばかりの執着心のあらわれだ。

 (2)28日開催の民主党両院議員総会では、自ら進める「エネルギー政策」見直しが次期国政選挙の最大の争点だとわざわざ「思わせぶり」に展開して述べて、衆院解散、総選挙へのシナリオを披露してみせた。
 震災復興、原発事故収束まではと目指す重要課題、政治的使命と述べながら、都合のいいところでは、これと「逆行」する震災復興もままならないなかでの総選挙強行まで視野に入れる、自らの野望のために政治を「もて遊ぶ」発言の不見識ぶりだ。

 震災復興、原発事故収束の遅れ、電力供給不足の夏を迎えて総選挙どころではない被災地、国民事情のなかでの政治破局(選挙敗北)のシナリオでしかないことは周知の上での「支離滅裂」、やぶれかぶれな首相発言だ。

 すでに正常な判断能力を失した資質の首相に政治が振り回されて、政治に期待できない国民、国際社会はとっくに自己自助努力での生活、社会防衛にシフトしている。

 (3)各電力会社の株主総会には、会場に入りきらない(立ち見)大勢の株主が詰めかけ、脱原発を提案(否決される)して、過去最長時間の総会となって関心の高さを示している。

 夏の電力供給不足では、何となくの具体像のない政府の15%、10%節電目標ではなく、土日操業、平日休業、サマータイムと自己防衛対策が進んでいる。
 例年になく梅雨の入りが早く、6月中からの異例の猛暑続き、例年より20日以上も早い梅雨明けをした地方もあって、今夏は電力不足に加え水不足も心配な情勢だ。

 政治の停滞は後年にダメージとなって国民に負荷を強いるが、ここはその自らの不幸を顧(かえり)みずに気を引き締めて、まずは夏7月を迎えたいものだ。

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司法と行政の分立。(諫早湾開閉門) separation of the three powers

2011-06-28 19:54:42 | 日記
 (1)政府でごちゃごちゃ玉突き押し出しのような今更の活気のない人事が行われていた27日に、諫早湾干拓事業の堤防排水門の閉門による被害訴訟の審判で「長崎地裁」が「開門を認めない」判断判決を示した。

 昨年12月には同被害訴訟で「福岡高裁」が「5年間の常時開門」により環境影響を評価するよう命じた判決が、政府の控訴断念ですでに確定している。
 福岡高裁の判決に控訴しないことも含めて、首相はいつものように地元への説明もないまま唐突に諫早湾堤防排水門の開門を支持して、地元の反発のなか政府方針として決定した。

 政府方針とは逆行する長崎地裁の判決を受けて、首相は政府方針との整合性のなかで福岡高裁の判決確定「支持」の正当性の「説明責任」が生じた。

 (2)諫早湾の漁業と農業の共存両立を目指すそもそも極めて環境共存のむづかしい干拓事業の設定に、堤防排水門による海域、海水の遮断という原始的な方法で対応した政府の展望のない無見識な対応方針が問題だった。

 有明海の有数の漁場の海域、海水を遮断して海流が途絶えて魚介類生息形態の変化(悪影響)が予見されていたが、海岸域に広がる農地、農業の干拓事業育成効果には必要な措置であった。

 漁業と農業の共存両立を目指すなら、海域漁場の環境適正化と農業改良の技術的、科学的、生産的な改革技術の研究開発力、裏付けがそもそも必要であった。
 混乱は当初から見過ごされてきた当然の帰結でもあった。利害関係者は、政府の無計画、無見識に乗った地元漁業、農業当事者であった。

 (3)長崎県地元は、「5年間の開門」を認めた福岡高裁判決に一貫した抗議意思を示しており、地元に説明もなくこれを支持した首相、政府とはコンタクトも拒絶した状態が続いている。
 一方、長崎地裁は漁業被害は限定的なものとして、農業効果、従事者により配慮した判決となった。

 裁判所の堤防排水門の開閉審判は、直接はそれによる漁業、農業活動、収益に悪影響が出たことによる間接的な問題提起ではあるが、「行政判断・方針」に対する審判であることには変わりはない。

 (4)三権分立(separation of the three powers)の立場から言えば、司法が行政(政府)の判断、方針に直接指示し、変更を求めることがあってはならないことだ。
 原告の利益救済とあるいは原状維持のために「適切」な行政判断、改善を求める程度のレベルの問題だ。

 司法(裁判所)が国の決定、判断をどこまで裁けるのか。たとえば国の戦争行為を裁くことは出来るのか。カンボジアでは、かっての独裁政権が国内で国民を大量に殺害(虐殺)した罪で当事者の裁判(特別法廷)が始まった。

 人を殺害する戦争行為はもちろん許されるものではないが、国内問題だから特別に裁かれてしかし覇権国家の国外での戦争行為で直接関係しない国民が理由もなく殺害されている「原状」は裁けないのか。裁けるのか。

 三権分立と国事行為と国民主権(政権選択)のトライアングル関係の問題でもある。

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一斉値上げの夏。 round summer of price raising

2011-06-27 19:52:03 | 日記
 (1)最近のガソリン価格の毎日の乱高下には、かっての原油国際(輸入)価格を前提とした、反映した定価格相場では理解できない需要と供給バランスの経済効率化の超変動相場制だ。
 需要と供給のインバランス関係は、乱立したガソリンスタンドの整理統合化に進み、サービス縮少、セルフ型で人件費を押さえても、今ではセルフ型ガソリン価格は人件費の抑制を価格に転嫁するという理念に反して高値を維持している。

 価格設定のメカニズム、理念がよくわからないまま、需要と供給のバランス、高利潤化のプロセス開示抜きの結果主義の経済社会だ。
 消費者は、よくわからない市場経済の価格設定、仕組みの中で、せめて安いものしか買わない生活保守主義で対抗してデフレ経済は続く。

 (2)東日本大震災、原発事故による今夏の電力供給不足問題、6月下旬の急激な気温上昇で各電力会社の現在稼働可能率の余力数%まで電力需要が達したという報道だ。
 これから7月夏本番を迎えて使用制限のなか、計画停電が実施されるのか、「余力数%」の事業実態(分析、検証、データ化)が国民にはわからないなかでの、国民へのひたすら節電キャンペーンで国民は何となく「その気」にさせられて協力させられるのが、人のいいところだ。

 各電力会社が持ちうる技術、能力、稼働の事業力のデータ化開示と説明、理解が前提での節電協力体制だ。何となく政府の15%、10%の節電目標で、市民生活、企業活動側からの善意の節電プランの機運、申告が優先する実態は不自然だ。

 自治体によってはこれに協力しない方針を示すところもあるし、メディアでは相変わらずの深夜、翌朝までの電力対効果の低い番組編成のままだ。
 多様なパターンを示しての国民の電力危機共有意識を高めることが肝要で、自助努力だけではないやはり政府の説明責任力不足、比較構成能力不足だ。

 (3)7月からはパン、めん、天ぷら粉、コーヒーと農産物、食料品、嗜好品数百品目のメーカー一斉値上げ(round of price raising)だ。
 経済発展の著しい新興国の食料需要増加に世界的な農作物の価格の高騰を反映して、平均5~10%規模の値上げにつながった。

 昨年末からの値上げラッシュで、食料自給率40%の日本の消費市場はどう反応するのか。自給率を50%に上げる政府の政策スキーム(scheme)効果も含めて、政府の食料体系のプログラミング、価格適正化はどう作用するのか。

 東日本大震災の復興起爆も含めて、「米作」重点回帰の自由食料生産シフトに切り替えて、日本農業の高い技術力、開発力、生産力に期待したいものだ。
 政府に過保護の計画統制農業でない、高い「能力」に裏付けられた農業国際競争力育成が将来農業、食糧事情には不可欠で、食料価格の安定化を目指したいものだ。

 国家間の自由貿易TPP交渉もすっかり中断して、政治停滞のなかで食料品値上げラッシュが消費者市場経済にダメージを拡げる。

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復興構想会議ビジョン。(気合いと夢がない) dreamless vision

2011-06-26 19:21:52 | 日記
 (1)首相の私的諮問機関として発足した復興構想会議が3か月近く12回の会議の結果、提言された内容は、①「防災よりは減災」、自然の脅威に立ち向かうことなど考えずに「逃げる」ことを基本とした防災教育の徹底だった。

 ②地形、産業の特性を5種類に分けての復興プラン、③規制緩和、権限委譲の特区、④原発の早期収束と事故対応、⑤再生可能エネルギーへのシフト、⑥そして復興財源の臨時増税アウトラインごときでは、被災地の復興に「風穴」を開けることなど不可能なほど夢のない(dreamless vision)気合いのない「平凡」な提言に終始している。

 そもそも同会議発足当初から、学者、専門家、知識人、自治体関係者など集めるだけ集めたメンバーの会議では満足な発言時間も確保できないという出席者の戸惑いも聞かれ、現地指揮で多忙の自治体関係者をわざわざ東京官邸に呼んでの被災者感情を慮(おもんばか)らない官邸同会議の不見識には、震災発生当時の学者、専門家の原子力委員会の機能しない不見識、不条理とダブルイメージとなる予感さえしていた。

 学者、専門家、知識人ほかの復興構想会議は、被災地から隔絶された冷静な立場から大局的な復興構想理念の構築を期待するという一方の見方もあるが、前代未聞の大震災で壊滅的な被害を受けた被災地、被災者感情に「飛び込んで」の生活者意識改革の「共有性」が復興ビジョンに求められていたのではないのか。

 (2)復興構想会議がまとめた提言は、専門的知識をいかした大局的な基本理念とはならずに、被災地自治体で対応考察できる極めて現実的で復興突破力、改革力に欠ける内容で、3か月の月日の経過の大きさが被災地、被災者の復興対効果に結びつかない「危機意識に乏しい」復興机上論となった印象が強い。

 3か月の間、政局は復興支援、原発事故収束への対応に不手際、遅れが指摘されて、首相の退陣表明、時期、首相資質問題に揺れ続けていたことから、同会議の熱意もどうだったのか、提言はありきたりで平凡な骨子内容だった。

 (3)復旧、復興、原発事故収束の目途も見えない被災地、被災者に「悲惨のなかの希望(同会議復興ビジョンの表題)」、「夢」を見せること(dreamless)が出来る内容とはとても評価できずに、まして「復興」推進イメージ、モチーブパワー(motive power)をふくらませるものではないのが残念だ。

 復興構想ビジョンは行政のタテ割り抵抗に苦慮したとされるが、行政機能、形態(州構想、東北各県の連携連帯)の革新性、経済特区(地域経済、農水産業改革)、被災地雇用政策の確立、生活者理念の革新性(効率、利潤と幸福感、人間性比較)、地域本来の歴史、慣習、特性、土着性の推進など「気合い」の入った革新性のある「夢」を提示しなければ、「復興」力は遠い。

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