(1)大相撲が国技であれ、なかれ、スポーツであれ、社会であれ、暴力行為は許されない。横綱日馬富士が巡業中に同じモンゴル出身の関取をリモコンなどで殴って負傷させたとして、「横綱としての責任」(報道)を感じて昨日引退を表明した。
現在、被害力士の親方の貴乃花親方が警察に被害届を提出していて、傷害事件として捜査中だ。本質はそういう刑事罰事件だ。
(2)メディア中心に今回の暴力事件をさかんに国技としての大相撲の横綱の品格(dignity)にそぐわない事件として殊更にとらえて、国技としての大相撲のブランド、プライドを守ることを優先させ(て追い詰め)た昨日の「横綱としての責任」を取る形での日馬富士の引退発表だった。
冒頭に述べたように暴力行為はどんな状況でも許されるものではなく、通常の事件なら捜査中の傷害事件としての捜査決着をみての進退判断というのが普通のことだった。
(3)大相撲は国技として政府の支援も受けて日本の歴史、伝統として長年受け継がれてきた文化であるが、日本相撲協会が力士志願者減少対策として外国人にも門戸を開いてから、国際スポーツ化して国技としての文化を持続することに本来的な矛盾問題を抱えて、自ら招いた対応に苦慮してきた近年の経過だ。
モンゴル出身力士が3横綱(日馬富士引退前)を始め番付上位を占めて、その振る舞いは従来の大相撲日本人力士との違いが機会あるごとに鮮明になって、社会問題になっていた。
(4)他のスポーツに比べて外国人力士の日本語の上達度は高く、大相撲に順応(adjustment)し溶け込んでいることが十分うかがえるものだ。しかし見た目にはいかに日本語が堪能でも、そもそも外国籍の力士で生まれ育った国の歴史、伝統、文化、生活の肌合いからは逃れようもなく、端々に価値観として残るのはやむを得ないところで、それもまた生まれ育った国の人間として当たり前の大切な感覚、感性でもある。
(5)日本相撲協会が外国人にも門戸を開いた段階で、自らの責任で国技としての大相撲のあり方にも寛容さ(generous)を求める基準改革が必要だった。
傷害事件といえば、あの女性国会議員が秘書を罵倒してハンガーを使って殴打した事件が浮かぶ(傷害事件として捜査)が、彼女は自ら引退することはなく議員に居座り続け今回の総選挙にも立候補して見事有権者から落選を申し渡された。
彼女は国民から負託を受けた国会議員としてのロールモデルとしてあってはならない行動をとったが、当然社会からは批判はあったが同じ傷害事件でも日馬富士事件ほどの社会問題(議員に居座り続け、その後も総選挙に立候補)とはならなかった。
(6)誤解を恐れずに言うなら、同じく傷害事件を引き起こした日馬富士を弁護する気持ちはさらさらないがこれまでのモンゴル出身力士の機会あるごとの大相撲としての無作法への非難、批判は、何か国技を盾にして日本社会がこれらの不足に偏った見方をしてるような感慨を憶えて残念だ。
ダメ出し、ガッツポーズ、バンザイなどなどモンゴル出身力士の行動に、日本文化とは違う外国人力士の観念としてある程度寛容であってもよかったことだった。
それが外国人にも門戸を開いた日本相撲協会の自己責任だ。
現在、被害力士の親方の貴乃花親方が警察に被害届を提出していて、傷害事件として捜査中だ。本質はそういう刑事罰事件だ。
(2)メディア中心に今回の暴力事件をさかんに国技としての大相撲の横綱の品格(dignity)にそぐわない事件として殊更にとらえて、国技としての大相撲のブランド、プライドを守ることを優先させ(て追い詰め)た昨日の「横綱としての責任」を取る形での日馬富士の引退発表だった。
冒頭に述べたように暴力行為はどんな状況でも許されるものではなく、通常の事件なら捜査中の傷害事件としての捜査決着をみての進退判断というのが普通のことだった。
(3)大相撲は国技として政府の支援も受けて日本の歴史、伝統として長年受け継がれてきた文化であるが、日本相撲協会が力士志願者減少対策として外国人にも門戸を開いてから、国際スポーツ化して国技としての文化を持続することに本来的な矛盾問題を抱えて、自ら招いた対応に苦慮してきた近年の経過だ。
モンゴル出身力士が3横綱(日馬富士引退前)を始め番付上位を占めて、その振る舞いは従来の大相撲日本人力士との違いが機会あるごとに鮮明になって、社会問題になっていた。
(4)他のスポーツに比べて外国人力士の日本語の上達度は高く、大相撲に順応(adjustment)し溶け込んでいることが十分うかがえるものだ。しかし見た目にはいかに日本語が堪能でも、そもそも外国籍の力士で生まれ育った国の歴史、伝統、文化、生活の肌合いからは逃れようもなく、端々に価値観として残るのはやむを得ないところで、それもまた生まれ育った国の人間として当たり前の大切な感覚、感性でもある。
(5)日本相撲協会が外国人にも門戸を開いた段階で、自らの責任で国技としての大相撲のあり方にも寛容さ(generous)を求める基準改革が必要だった。
傷害事件といえば、あの女性国会議員が秘書を罵倒してハンガーを使って殴打した事件が浮かぶ(傷害事件として捜査)が、彼女は自ら引退することはなく議員に居座り続け今回の総選挙にも立候補して見事有権者から落選を申し渡された。
彼女は国民から負託を受けた国会議員としてのロールモデルとしてあってはならない行動をとったが、当然社会からは批判はあったが同じ傷害事件でも日馬富士事件ほどの社会問題(議員に居座り続け、その後も総選挙に立候補)とはならなかった。
(6)誤解を恐れずに言うなら、同じく傷害事件を引き起こした日馬富士を弁護する気持ちはさらさらないがこれまでのモンゴル出身力士の機会あるごとの大相撲としての無作法への非難、批判は、何か国技を盾にして日本社会がこれらの不足に偏った見方をしてるような感慨を憶えて残念だ。
ダメ出し、ガッツポーズ、バンザイなどなどモンゴル出身力士の行動に、日本文化とは違う外国人力士の観念としてある程度寛容であってもよかったことだった。
それが外国人にも門戸を開いた日本相撲協会の自己責任だ。