いのしし くん。

政治、経済から音楽全般の評論
ultimate one in the cos-mos

起立するか君が代。 standing singing a national anthem

2011-05-31 19:32:36 | 日記
 (1)3年半もかけて最高裁まで争って、何か小むずかしい話のように(当事者には重要問題化)聞こえるが、恒例、都立高校卒業式での国歌「君が代」斉唱時に校長命令に従わずに自己信念(思想、良心の自由)で起立(standing singing a national anthem)しなかったことの、初めての憲法判断だ。
 原告はこのことにより戒告処分になったあと、教職の再雇用を拒否されたことから問題は複雑化するのもまた恒例化している。

 思想、良心、信条の自由と言っても、この最高裁上告問題は組織的な「政治的」意義合いを持つと解釈するのはやむを得ない。原告も、その後の赴任先高校では「生徒を巻き込みたくない」と「起立」(報道)しているのだから尚更(なおさら)だ。

 (2)国民は憲法上必要最少限度の生活保障等、基本的人権は保障されているが無原則のものではない。1億2千万人が限られた国土、社会、組織で生存、生活する以上、「制約」を受ける中で権利を共有しなければ成り立たない構造社会でもある。

 国歌(法令規定)「君が代」を行事、儀式で全員起立遵守で歌うことが、過度の「制約」にあたるかどうかの一般論、普遍論の問題だ。「君が代」を忌まわしい歴史過去から国歌として認めないレフトゾーンから、「君が代」を天皇制の象徴として崇拝するライトゾーンまで幅の広い概念の中での、制約コンセンサス(control consensus)だ。

 少なくとも公式行事、儀式に出席して責務、職務を果たしている以上、その中で国歌「君が代」を歌う、歌わない、起立する、起立しないは、マクロとして「制約コンセンサス」の中に含まれる許容行為と総じて判断していい程度、質論のものだ。

 (3)起立命令を初めて合憲とした最高裁判例でも、「強制的(強制される)なものではなく、自発的な敬愛の対象と環境整備すべき」との補足意見もある。
 国歌「君が代」や国旗「日の丸」は、少なくとも通達や条例で意思を拘束し違反者に罰則を科すような範疇のものではなく、本来総意として強制されるものではなく「良心」に従って個々の裁量に委(ゆだ)ねられるものだと言うことだ。

 原告が「生徒を巻き込みたくない」と「起立」している姿が、個人としての制約のコンセンサスを具象化するものだ。
 その中で起立する、しないの行為が、結果として責務、職務とする行事、儀式の円滑な進行を「妨げる」行為かどうかの判断を、個々に求められるものだ。

 (4)今回訴訟のように、政治的な意義合いを個人の思想、良心の自由を持ち出して何か小むずかしい話のようにつくりあげるのは、そろそろ論外にして争う利益がない。
 問題は、そういうこと(起立の遵守)を理由に通達、条例で違反者に罰則を科し、仮に雇用を差別化するとしたらその行政指導にこそ問題はある。

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競走馬の純粋美学。 purity aesthetics of racing horse

2011-05-30 19:30:14 | 日記
 (1)久し振りにスカッとするすばらしいレースを見た。台風(のちに熱帯低気圧)の影響で雨の中での東京競馬場のダート(芝)コース2400メートルで行われた昨日の日本ダービー。
 馬体の軽い(444キロ)オルフェーヴルが両脇2頭に前方進路を挟まれるように3頭密着して一団となって並走する。小柄な分、オルフェーヴルは完全に両脇の2頭に馬体を制御されているように映るが、首から鼻先は2頭の間を懸命に割って入って譲らない冷静な落ち着いた雰囲気が伝わってくる。
 もたれるように3頭並走が続いたあと、ゴール前直線コースに入って満を持したように混走の間を割って抜けて、オルフェーヴルは両脇の2頭を置き去りにしてそのままギアチェンジのトップスピードに乗ってトップでインゴールした。
 今年4月の皐月賞(G1レース)に続く2冠を達成した。

 馬は、もちろん言葉を発しないが「寡黙」で、気性は激しくても仕草が攻撃的ではないひたむきさを感じる。眼がいつも前方下をみつめるように、「ひかえ目」なところがそう思わせる。

 そういう寡黙でひたむきな姿勢で2400メートルをギアチェンジしながら、まるで競走相手馬にやることやらしておいて実力を見極めるようにひたすら走り、ある時は我慢し、ある時は流れに乗って、勝負どころで相手を見切った実力の馬力をフルスロットル(full throttle)する縦横無尽だ。

 今レースのように小柄な馬体を両脇2頭に押さえ込まれるように挟まれて混走する「ドラマ」を見せて、一瞬のトップスピードで置き去りにするレース美学(racing aesthetics)を見せられては、非常に親近感を持たせるクレバーな競走馬オルフェーヴルだ。

 オルフェーヴルが見せた雨中の日本ダービーの主演ドラマは、幾重ものハンディを克服してそれに果敢に立ち向かう美学(aesthetics)を示して、結果として人生のパラダイム(paradigm)を見せたのではないのか。
 外は激しい雨模様であったが、久し振りに心の晴れる思いの3分弱の至福の時間であった。

 レースの売り上げは昨年比較20%減で、近年の競馬レース離れ(一時期が論外な過熱過多傾向であったと言うべきか)に経済停滞と東日本大震災の影響で大幅な落ち込みとなったが、そういう人間社会の思惑、賞金レースを超越した純粋美学(purity aesthetics of racing horse)を見せつけた。

 (2)被災地への支援金、義援金の自治体、被災者への支給が始まったが、被災自治体では支給対象を巡って試行錯誤が続くところもある。国民からの「善意」は、被災実態実情に合わせた公正で公平な透明性の高い周到な配分基準が求められる。
 少々時間がかかっても、災害マップの把握とそれに見合った支給対象、支給額の基準づくりと全額の流れの情報開示に努め、善意に応えたい。
 まずは自治体機能復旧の支援金活用だ。一部、未確認情報だが行き先のない義援金が支援活動機関内に滞(とどこお)っているなどということが仮にもあってはならない。

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辺野古移設の「条件」。(工程表) terms of transfer

2011-05-29 19:27:36 | 日記
 (1)沖縄米軍普天間基地(飛行場)の移設先問題、辺野古沖周辺移設の日米合意(agreement of japan and america)から1年経過した。
 事態は、政府と沖縄(自治体、県民)が双方の立場を主張してまったく進展をみせない。総選挙時から国外、県外を主張していた民主党政権は、米国米軍の意向に屈して急ぐあまりに辺野古キャンプシュワブ沖周辺移設で日米合意に至った。
 日米安保条約、日米軍事同盟のフレームワーク(frame work)の中で敷かれたレールに乗せられて約束させられた外交特権行為だった。

 (2)国内の米軍基地の75%が沖縄に集中して、市街地に隣接する普天間基地の危険性、生活妨害は米軍ヘリ墜落事故で現実のものとなっており、沖縄への過度の犠牲負担解消は国民共有の思いだ。
 結果として国民の声を無視しての日米同盟のフレームワークの中での外交特権行為は、国内問題、課題への米国からの不当な内政干渉を超政治的な政治判断でカムフラージュ(camouflage)するものだ。

 たとえは適当かは別にしても、かっての世界大戦に国体の存亡を賭けて独善的に戦争行為に突っ走った日本軍部、軍事政権が、その責任は国民犠牲に負わせたのと同じ構図(composition)だ。ただ単に、歴史を繰り返してはならない。
 日米安保条約、軍事同盟がある限り、決定過程に問題はあっても辺野古沖周辺移設の日米合意は「不変」の原理原則だ。
 日本がいまだに米国の占領体制下にあるという意味だ。最近来日した米国政府高官は進展しない基地問題にひと言「no speed」と言った。

 (3)沖縄では、知事選、名護市議選と相次ぐ「県民・市民意思」レベルで「県内移設」は否定されて、基地移設にともなう埋め立ての許認可権を有する自治体の首長は行政裁量を県民・市民意思に制約されている。こちらは民主主義の手順を踏んだ県民・市民意思が支える行政裁量権だ。

 (4)国民の意思とは関係なく、日米安保条約、軍事同盟に拘束された外交特権行為と県民・市民の意思に根拠を置く民主主義の沖縄の声、行政裁量権との絡(から)まったミスマッチ、どう解決の糸口を見出していくのか。
 米国議会からは進展しない基地問題に見直し論(国内最大の嘉手納基地統合案)も出ているが、日米合意を覆(くつがえ)すことは国家間の外交政策決定の自己矛盾を追認することになり、国際関係、信義上あり得ないことだ。

 (5)沖縄では、過半数はなくとも「県内移設」論もある程度の比率で存在する。県民所得が恒常的に全国最下位ランクにある経済振興策のためだ。しかし、危険、生命と経済振興とは比較のしようもない別次元のもので、経済振興策は近代化の今や多数派とは成り得ない。

 (6)国民の意思とは無関係の乱暴な外交特権行為の日米合意とは言え、政治力学のプライオウリティ(political priority)を持つ。
 あとは辺野古移設のための高度な「条件」(terms of transfer)整備だ。いつまで危険、過度の負担と向き合い、危険、過度の負担を除去するのか。国際情勢は、軍事独占から経済協調主義に変化してきており、市民デモクラシーの自立、独裁政治の崩壊も進んでいる。

 最大求められるのは、日米合意のもとでの沖縄の過度の危険負担を軽減する高度な「条件」と年次「工程表」(action program)の日米合意、沖縄の納得だ。

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生きる潜在力。 awakening potentiality

2011-05-28 19:17:05 | 日記
 (1)政府の政治を動かさない後追いマンネリ停滞感に、与野党の駆け引きばかりの優柔不断国会と政治の中枢からは暗い顔、情報ばかりが露出してくる震災2か月経過後の今日だ。
 被災地からは、日に日に人間同士の助け合い、若い女性がひとりまたひとりと老人を背負っての避難行動の実態が明らかになって、たくましい力強い輝く顔が見えてくる。

 危機に直面しての人間のそれまでとはまったく違う行動、能力、意欲、意思が自然と働き、発揮されることは必ず目にすることだ。人間の誰でも持ちうる本来的な、「生きる潜在力(awakening potentiality)」だ。
 前代未聞の大震災に際して、人間の可能性の広さを自覚するまたはせざるを得ないとしても、結果として行動、能力、意欲、意思がどんどん前向きに自然に実行されている潜在力に気づくことがある。

 被災地からの情報で、人間の本来持っている「生きる潜在力」が危機管理として発揮されているニュースを目にすると、復旧、復興には「時間は必要」でも、それはまた「時間の問題」でもあると確信できる。
 呼び覚ますこともあれば、自覚もあれば、覚悟もある。誰もが持つ本来的な「生きる潜在力」の発露だ。

 本来支援すべき核となる政治が置き去りにされているほどの、被災地の強い人間エネルギーを感じることがある。被災地の復興は地元の意思を尊重してと言う専門家の助言など、現状に不釣り合いな停滞した政治を置き去りにするほどの地元の若いエネルギーの発露を歓迎したい。
 
 政治も引き込まれるように政治力のなさを自覚して、目が覚めるのを待つしかないのか。まだ政治が担う復興体制は独善的な駆け引きの応酬で不透明のままで、被災地に顔向けもできない。

 (2)東電の賠償問題だけは、東電の責任対応、リストラ策も不十分な中で国の責任保証を含めた賠償支援体制ばかりが先行して合意されている。
 東電の責任第一を掲げながら、政府は勝手に国民投資(税金)を使っての東電資産の買い取りで東電融資を計画中だ。

 被災地への政治支援の遅れと比較して政治政策プライオウリティ(priority)の順序が逆転しているのは、今の政権の政治姿勢を示すものとあきらめている場合ではない。
 復興構想会議はもちろん重要課題ではあるが、その前に立法を含めた行政支援、調査、復旧と取組むべき政治課題の糸口は、国民の目には見えてこない。
 政治責任とは、首相が報酬を返上するような政治感覚のレベルのものではない。

 政府政治には、被災地の若いエネルギー、人間の可能性、生きる潜在力がどう映って見えているのか知りたいものだ。

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電力産業の再編健全化。 balanced relieved electric power industry

2011-05-27 19:32:10 | 日記
 (1)改ざんと事実隠しの歴史の東電が「言った」、「言わない」、「聞いていない」で応酬の中の福島原発事故の「海水注入中断」問題で、2か月以上も経過して実は現場所長の自己判断で海水注入を継続していたことを明らかにした。
 海水注入中断(と思われていた、東電の初期データにも中断と記録されている)は、その後の原子炉圧力容器の不測の事態に影響力があったと見られていた。

 海水注入継続は、現場からの事情聴取による発覚ということで、証拠データの開示もなくにわかには信用も出来ない。
 仮に海水注入を継続していたとしても、政府、首相、機関、国民は福島原発事故に収束の見通しも不透明な不測で危険な事態は発生していたと考えられているし、汚染水、放射性物質の漏えい拡散データから、建屋外観からもそう判断して間違いない事態だ。

 (2)最早、海水注入が「中断」していたのか、「継続」していたのかは問題ではない収束不良、不測の事態ということだ。これまでの応酬は、東電の改ざんと事実隠しの歴史にあらたなページを加えただけのことだ。

 報道によると、東電の幹部職員は「事故が今の状況で済んでいるのは(自己判断で海水注入を継続したとされる)現場所長の存在も大きい」と、信頼のおける情報開示が大原則の国民の生命、安全に直結する原発事故への本末転倒の責任論やこの期に及んでのあきれたばかりの自己擁護論だ。

 よく病院で効能もわからずに薬を処方されて、服用を続けても効果の自覚がなく病院に結果を尋ねても、薬を服用しているからまだそれ(状態)で済んでいるというロジック(logic)にまるめ込まれる(もちろん事実かもしれないが証明力はない)のと同じ論法だ。

 (3)東電に戻ると、IAEAの現地調査に合わせた「覚悟」の証言、報告だとすれば、与えられた企業マインドの本質論を理解できないどこまでも国民(政府、機関は東電と一蓮托生で除外)をあざむく隠ぺい体質企業の東電だ。
 聞くところによると、現場所長と東電本店との関係は良好とは言えないとのことだが、それは企業内で対応すること、都合のいいことだけは情報操作するかのような軽さ、企業内不統一は、到底、電力基幹事業を担う資質もなく、企業使命感もない。
 政府、政党と病原体が同根にある。エネルギー政策をあわせてともに解体、再編、再生治療が究極の(ultimate)課題だ。

 こういう者たちが日本の産業の中枢にいて経済を引っ張ってきたのかと思うと、公平で公正、平等な社会基盤が損なわれてきた実態、実状がよくわかる。

 (4)エネルギー政策は白紙に戻すと言う。原発から自然再生エネルギー活用に基軸を移すと言うが、ソフト面(エネルギー種別)よりもそれを活かす事業化するハード面(企業)の公平、公正な環境整備、健全化(balanced relieved electric power industry)がポイントだ。

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