(1)刑法は報復主義(retaliationism)をとらないから、それは「社会正義」のパラダイム
(paradigm:模範)としての「公平性」、「公正性」の維持を目的とする。
被害者の将来、原状回復の可能性がない場合の、加害者だけの将来性、原状回復
〔更生の可能性(possible regeneration)〕を論じる、判断するのは、公正ではあっても
「公平性(justice style)」を欠く。
(2)殺害の行為(criminal act)は、年令に関係なく逆に未成年だからの抑制のきかない
残虐、非人間的なものであった。直接、殺害行為者本人とは関係のない当事件被害者の
友人までも無情にも残酷に殺害している。
未成年者による石巻市3人殺傷事件の裁判員裁判は、最高裁判例の死刑判定基準(9
項目)に則して審議し、死刑判決にあたって①加害者本人の反省度、②当時18才(現在
19才)の少年の更生の可能性が論議の焦点となった。
殺害方法の残虐性、動機の身勝手、反省のなさの悪質性からの死刑判決の妥当性に、
最後の障害となったのが当時18才の未成年者の「将来」にわたっての「更生の可能性
(possible regeneration)」だった。
(3)判決では、裁判審議の経緯を述べたあと、「少年の更生可能性は著しく低いと評価せ
ざるを得ない。」と結論付けて、死刑判決を決定した。
世界は、国際世論は死刑廃止が主流だが、それを基本理念に置いても(本ブログの死刑
廃止のテーマ参照)刑法に最高刑として死刑規定が存在し、最高裁判例に死刑判定基準
が存在している日本で、今回の事例はそれでは行為の残虐性に則しても、「その後」反省
も深く、少年の「更生可能性」が高いと判断されればその非人間的な「行為」にかかわらず、
死刑は適用しないことが、社会正義のパラダイム(paradaigm)としての公正、公平というこ
とになるのか。
(4)「行為」そのものでもなく、「年令」、「将来性」で差別される人的要素が法的判断に存
在することが、人が人を裁く不条理の中で社会正義のパラダイムとしての公平、公正性を
欠く司法の現実観だ。だからこその死刑廃止の理論的妥当性でもある。
最近の一部高年令者に犯罪行為が増加している。将来性のないことを担保にして、犯罪
で公然と国に生活を保障してもらう(刑務所勾留生活)というものだ。
年令、将来性を基準とする社会正義のパラダイムへのひとつの弊害だ。
(5)少年の更生可能性に期待するということは、一生拘束されて罪を償う無期刑でもなく、
少年のこれからの長い一生、将来の中で「社会復帰」をして被害者の分まで社会貢献を果
たすことに期待するものとなる。
人道上のせめてもの救えるものは救うという、可能性としては考えられる公正性はあるが、
しかし、年令、将来性の差別化で「公平」ではない。
もちろん、将来の長い少年にとって期限を切らずに長い一生を拘束されて罪を償う無期刑
の残酷さは、パラドックス(paradox)として刑法が報復主義をとらない理念にそぐわないこと
になる。
(6)分かりやすい仮定で言うなら、それでは余命幾(いく)ばくもない老人の「同様」の犯罪
行為は死刑判決に障害はなく、将来の長い若者であれば「同様」の犯罪行為でも社会復帰
の可能性を残すということになる。
年令で、将来性で人間を差別化して、犯罪行為の悪質性は二次的な判決判断の構成要
件としてしまう。それでは、社会正義のパラダイムを維持することはできない。犯罪はむしろ
人を憎まず行為(罪)を憎むと言うのが哲学だ。
(7)刑法の報復主義をとらないスタンスから、死刑適用に当っては社会正義のパラダイム
への公正、公平性の発信、維持が趣旨だ。考えによっては、死刑判決より「苛酷」な期限を
切らずに一生拘束されて罪を償う無期刑も、人間性否定の観点から考えものだ。
犯罪は、「行為」の「社会正義」のパラダイムからの「距離観」を見計らっての公正で公平
な基準により裁かれるものだ。
本来そこには「行為の同質性」があれば、年令とか将来性とか更生可能性とかが介在す
るものではない。
(paradigm:模範)としての「公平性」、「公正性」の維持を目的とする。
被害者の将来、原状回復の可能性がない場合の、加害者だけの将来性、原状回復
〔更生の可能性(possible regeneration)〕を論じる、判断するのは、公正ではあっても
「公平性(justice style)」を欠く。
(2)殺害の行為(criminal act)は、年令に関係なく逆に未成年だからの抑制のきかない
残虐、非人間的なものであった。直接、殺害行為者本人とは関係のない当事件被害者の
友人までも無情にも残酷に殺害している。
未成年者による石巻市3人殺傷事件の裁判員裁判は、最高裁判例の死刑判定基準(9
項目)に則して審議し、死刑判決にあたって①加害者本人の反省度、②当時18才(現在
19才)の少年の更生の可能性が論議の焦点となった。
殺害方法の残虐性、動機の身勝手、反省のなさの悪質性からの死刑判決の妥当性に、
最後の障害となったのが当時18才の未成年者の「将来」にわたっての「更生の可能性
(possible regeneration)」だった。
(3)判決では、裁判審議の経緯を述べたあと、「少年の更生可能性は著しく低いと評価せ
ざるを得ない。」と結論付けて、死刑判決を決定した。
世界は、国際世論は死刑廃止が主流だが、それを基本理念に置いても(本ブログの死刑
廃止のテーマ参照)刑法に最高刑として死刑規定が存在し、最高裁判例に死刑判定基準
が存在している日本で、今回の事例はそれでは行為の残虐性に則しても、「その後」反省
も深く、少年の「更生可能性」が高いと判断されればその非人間的な「行為」にかかわらず、
死刑は適用しないことが、社会正義のパラダイム(paradaigm)としての公正、公平というこ
とになるのか。
(4)「行為」そのものでもなく、「年令」、「将来性」で差別される人的要素が法的判断に存
在することが、人が人を裁く不条理の中で社会正義のパラダイムとしての公平、公正性を
欠く司法の現実観だ。だからこその死刑廃止の理論的妥当性でもある。
最近の一部高年令者に犯罪行為が増加している。将来性のないことを担保にして、犯罪
で公然と国に生活を保障してもらう(刑務所勾留生活)というものだ。
年令、将来性を基準とする社会正義のパラダイムへのひとつの弊害だ。
(5)少年の更生可能性に期待するということは、一生拘束されて罪を償う無期刑でもなく、
少年のこれからの長い一生、将来の中で「社会復帰」をして被害者の分まで社会貢献を果
たすことに期待するものとなる。
人道上のせめてもの救えるものは救うという、可能性としては考えられる公正性はあるが、
しかし、年令、将来性の差別化で「公平」ではない。
もちろん、将来の長い少年にとって期限を切らずに長い一生を拘束されて罪を償う無期刑
の残酷さは、パラドックス(paradox)として刑法が報復主義をとらない理念にそぐわないこと
になる。
(6)分かりやすい仮定で言うなら、それでは余命幾(いく)ばくもない老人の「同様」の犯罪
行為は死刑判決に障害はなく、将来の長い若者であれば「同様」の犯罪行為でも社会復帰
の可能性を残すということになる。
年令で、将来性で人間を差別化して、犯罪行為の悪質性は二次的な判決判断の構成要
件としてしまう。それでは、社会正義のパラダイムを維持することはできない。犯罪はむしろ
人を憎まず行為(罪)を憎むと言うのが哲学だ。
(7)刑法の報復主義をとらないスタンスから、死刑適用に当っては社会正義のパラダイム
への公正、公平性の発信、維持が趣旨だ。考えによっては、死刑判決より「苛酷」な期限を
切らずに一生拘束されて罪を償う無期刑も、人間性否定の観点から考えものだ。
犯罪は、「行為」の「社会正義」のパラダイムからの「距離観」を見計らっての公正で公平
な基準により裁かれるものだ。
本来そこには「行為の同質性」があれば、年令とか将来性とか更生可能性とかが介在す
るものではない。