(1)日本の知る権利、報道の自由(freedom of press)は確実におかしくなってきている。1昨年の特定秘密保護法の制定から安倍政権の選挙報道に対する公平、公正性を盾にした政治干渉発言に、極めつけが高市総務相の放送法にもとづく電波停止の可能性言及だ。
放送許認可権を持つ総務相の電波停止発言などは報道の自由が普通で当たり前の今日的日本で、突然に戦前の全体主義社会に引き戻されたかのような不思議感覚な非現実的権力支配の感慨に浸されるあきれたものだった。
(2)自由主義社会で先陣を切る米国では新聞社が政権の中枢に切り込んで取材し、政治不正を摘発して政権を交代に追い込んだことも(ウォーターゲート事件など)記憶に鮮明だが、いま行われている米国大統領予備選でも全国紙が独自に支持候補者を表明するなど報道の自由性はそこまでやるのかの印象はある。
仮に日本のマスコミ、メディアが同様のことをやれば、いまの安倍政権では報道の公平、公正性を著しく損なうとして干渉することは間違いない。
(3)安倍政権、与党自民党がことさらにメディアに対して強い対決姿勢をとり続ける理由は何なのか。ひとつには安倍首相の政治手法、姿勢が見栄え主義で「印象」を強く意識する人間性にあると考える。
政治手法は安倍首相、官邸主導政治でトップダウン方式であり、核心を安倍首相個人の考え、構想で動かしてお膳立てした成果をことさらに強調したがる。かっての派閥全盛の自民党では派閥領袖の意向を汲んでの取りまとめ、調整機能が政府の役割だった。
(4)金融政策の日銀総裁、法案、憲法解釈の法制局長官を安倍首相の理念に近い人物をあからさまに起用して意図した政策を強引に推進するやり方にあらわれている。
これらを国民に報道するメディアに対して相当に神経を使っているはずで、ことさらに意に反する報道に対しては注文、介入する姿勢で対決する。
個人主義、権利主義が強い米国社会と違って日本人的特性というか儒教思想に根差した「徳」、「仁」の思想、価値観が日本社会の根底にあって、メディア報道にもいわゆるドギツイ批判姿勢はあまり見られずによくいえば穏健で良識的、良心的な権力にモノ言わない遠慮がちな風潮は見られる。
(5)冒頭の高市総務相の電波停止発言に対しても一部の報道人などが批判会見を開いてはいるが、国民的、社会的危機感を巻き込んで報道の自由を守るという動きにはなっていないところが、多分に米国社会との基本的な違いだ。
メディアでは高市総務相の電波停止発言を受けて反発するどころか萎縮、自粛の動きもあると伝えられている。
(6)安倍首相は日本人、日本社会のファンダメンタルズ(fundamentals)、底辺思想を見越しての政権、政治にとって利用価値の高いメディア報道をも思いのままにあやつりたい意向のあらわれだ。
安倍首相の報道関係者との会食の多さが目に付き(首相行動報道)、政権と一定の距離を置いて国民の知る権利の橋渡しを役割とする報道機関の姿勢にも問題はある。
(7)その風潮が社会にもあらわれている。昨年10月に巨人軍投手3人の野球賭博事件が発覚して処分を受け、その5か月後の今年3月に週刊誌の指摘を受けてさらにもうひとり投手が同野球賭博にかかわっていたことを自ら表明してあきらかになった。
これを受けて産経新聞が10月3人(重い処分)と3月1人(軽い処分)の処分の差異について「涙を浮かべて誤ったから処分が軽くなったのかと疑ってしまう」(報道)というスポーツ評論家の談話を載せたところ、日本プロ野球機構(NPB)から事実に反するとして同新聞社の取材立ち入り禁止を受けているといわれる。
(8)今時、評論家の感想ごときに反応して取材禁止では言論封殺の危険な風潮(current)のあらわれだ。
NPB、巨人軍としては昨年10月3人と今年3月1人の処分のタイムラグ(time lag)はどう考えてもおかしいし、不手際なのはあきらかで、疑問に正しく答えることで責任、パラダイム(paradigm)を示すべきであった。
報道の自由への危機社会(the social crisis of freedom of press)だ。
放送許認可権を持つ総務相の電波停止発言などは報道の自由が普通で当たり前の今日的日本で、突然に戦前の全体主義社会に引き戻されたかのような不思議感覚な非現実的権力支配の感慨に浸されるあきれたものだった。
(2)自由主義社会で先陣を切る米国では新聞社が政権の中枢に切り込んで取材し、政治不正を摘発して政権を交代に追い込んだことも(ウォーターゲート事件など)記憶に鮮明だが、いま行われている米国大統領予備選でも全国紙が独自に支持候補者を表明するなど報道の自由性はそこまでやるのかの印象はある。
仮に日本のマスコミ、メディアが同様のことをやれば、いまの安倍政権では報道の公平、公正性を著しく損なうとして干渉することは間違いない。
(3)安倍政権、与党自民党がことさらにメディアに対して強い対決姿勢をとり続ける理由は何なのか。ひとつには安倍首相の政治手法、姿勢が見栄え主義で「印象」を強く意識する人間性にあると考える。
政治手法は安倍首相、官邸主導政治でトップダウン方式であり、核心を安倍首相個人の考え、構想で動かしてお膳立てした成果をことさらに強調したがる。かっての派閥全盛の自民党では派閥領袖の意向を汲んでの取りまとめ、調整機能が政府の役割だった。
(4)金融政策の日銀総裁、法案、憲法解釈の法制局長官を安倍首相の理念に近い人物をあからさまに起用して意図した政策を強引に推進するやり方にあらわれている。
これらを国民に報道するメディアに対して相当に神経を使っているはずで、ことさらに意に反する報道に対しては注文、介入する姿勢で対決する。
個人主義、権利主義が強い米国社会と違って日本人的特性というか儒教思想に根差した「徳」、「仁」の思想、価値観が日本社会の根底にあって、メディア報道にもいわゆるドギツイ批判姿勢はあまり見られずによくいえば穏健で良識的、良心的な権力にモノ言わない遠慮がちな風潮は見られる。
(5)冒頭の高市総務相の電波停止発言に対しても一部の報道人などが批判会見を開いてはいるが、国民的、社会的危機感を巻き込んで報道の自由を守るという動きにはなっていないところが、多分に米国社会との基本的な違いだ。
メディアでは高市総務相の電波停止発言を受けて反発するどころか萎縮、自粛の動きもあると伝えられている。
(6)安倍首相は日本人、日本社会のファンダメンタルズ(fundamentals)、底辺思想を見越しての政権、政治にとって利用価値の高いメディア報道をも思いのままにあやつりたい意向のあらわれだ。
安倍首相の報道関係者との会食の多さが目に付き(首相行動報道)、政権と一定の距離を置いて国民の知る権利の橋渡しを役割とする報道機関の姿勢にも問題はある。
(7)その風潮が社会にもあらわれている。昨年10月に巨人軍投手3人の野球賭博事件が発覚して処分を受け、その5か月後の今年3月に週刊誌の指摘を受けてさらにもうひとり投手が同野球賭博にかかわっていたことを自ら表明してあきらかになった。
これを受けて産経新聞が10月3人(重い処分)と3月1人(軽い処分)の処分の差異について「涙を浮かべて誤ったから処分が軽くなったのかと疑ってしまう」(報道)というスポーツ評論家の談話を載せたところ、日本プロ野球機構(NPB)から事実に反するとして同新聞社の取材立ち入り禁止を受けているといわれる。
(8)今時、評論家の感想ごときに反応して取材禁止では言論封殺の危険な風潮(current)のあらわれだ。
NPB、巨人軍としては昨年10月3人と今年3月1人の処分のタイムラグ(time lag)はどう考えてもおかしいし、不手際なのはあきらかで、疑問に正しく答えることで責任、パラダイム(paradigm)を示すべきであった。
報道の自由への危機社会(the social crisis of freedom of press)だ。