いのしし くん。

政治、経済から音楽全般の評論
ultimate one in the cos-mos

松井「光線」ホームラン。 ray's home run

2012-05-31 20:41:35 | 日記
 (1)昨日のプロ野球は、①米国メジャーリーグで3Aから昇格したその日の復帰第1戦でレイズ(rays)の松井秀喜さんがいきなり2ランホームランをライトスタンドに豪快に打ち込み、②日本プロ野球では今年巨人に移籍した杉内俊哉(投手)さんが9回2アウトまでひとりの走者も出さない完全試合直前の力投で、その後四球を出してのしかしノーヒット・ノーラン試合を記録した。

 杉内さんのリズム、テンポのいい糸を引くように走るストレートの小気味のいい投球が圧巻だった。小柄な杉内さんだが安定した投球フォームから放たれるボールは、手先から捕手まで糸を引くような杉内ストレートだった。
 最近のチェンジアップ、ツーシームの変化球主体の他の投手ではあまり見かけない杉内さんの「糸を引く」ストレートで、見事な球筋だ。

 小柄(175センチ)ながら足が地をはうような安定した投球フォームから、ゆったりと落ち着いた投球リズム、テンポが生みだす「糸を引く」ストレートだ。投球フォームのお手本のような杉内ストレートだ。
 もちろん、昨日ケガから久し振りに1軍復帰した楽天投手の田中将大さんの力感ある力投があってこその比較相乗効果、杉内クローズアップのノーヒット・ノーラン試合だったのだ。
 野球はひとりで成り立つものでもなく、自チーム、相手チームの相応の健闘、緊迫の時間の推移もあってこその「醍醐(だいご)味」だ。

 (2)米国メジャーリーグ、レイズの松井秀喜さん復帰第1戦は4月にイチローさんのいるマリナーズ相手に完全試合を達成したホワイトソックスのハンバー投手が相手だった。4回の第2打席で真ん中やや高めに入ってきたストレートをジャストミートし、ライナー性のバットから光線(ray)を引くように力強く大きな打球がライトスタンドに突きささる快心の松井光線ホームラン(ray's home run)だった。

 松井さんにとっては久々のメジャーリーグ、相手は今年の完全試合投手しかもイチローさんを完全に抑えた相手とあっては、舞台はこれ以上もない設定の中で高い松井集中能力が見事に発揮されたホームランゲームだった。
 松井秀喜さんはヤンキース時代の09年に日本人メジャーリーガーとして初めてワールドシリーズMVPを獲得して、大舞台に強い世界的「実力(real power)」を証明した。

 その後ヒザの手術などもあって守備の機会も減ってシーズンを通しての本来のリズム、調子を取り戻すこともなく、今年は5月まで所属チームも決まらない状態だった。
 松井さんは37才の現在もケガは別として体調管理(weight)が行き届いて衰えも少なく、機会さえ与えられれば「実力」を発揮できると述べてきた。

 その科学的、相対的根拠は体調管理以外にはない訳だけれど、科学的根拠などとは普遍的な誰にでも当てはまる理由付けの一般的定義論であるから、ワールドシリーズMVP、メジャーリーグ10年目を迎える松井秀喜さんのような特殊高能力者にはそもそも当てはまる定義論理ではない。イメージ先行(実績評価)でも正当性はあるということだ。

 その通り、見事なレイ(光線)・ホームランで「実力」を証明してみせた。もうひとつメジャーリーガーのすばらしいところ。ホワイトソックス完全試合投手ハンバーさんのこのゲームでの「語り」が印象的だ。「打たれたのは速球。失投じゃない。いいスイングをされただけ。」
 真ん中やや高めのストレートで力で真っ向勝負をあえて挑むメジャーリーガーの「やり方」、心意気と理解すべき「醍醐味」だ。

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指揮権と原子力規制庁。 command and atomic energy regulation agency

2012-05-30 20:22:30 | 日記
 (1)内閣府原子力委員会の核燃料サイクル政策検討会議で、使用済み核燃料再処理方式を推進する政府、事業者、専門家のグループだけで秘密会議(勉強会)を開いて、同会議評価報告書を都合よく書き換えていたことがあきらかとなったり、原子力行政を推進する経産省の中に規制、監督する機関の原子力安全・保安院を設置したりと、バラバラの原子力行政が既得権益(原子力村トライアングル)に支配されて組織として公正、公平、円滑に機能しない矛盾を抱えていた。

 福島原発事故での危機管理対応で情報収集、伝達、公開、指揮管理の不備、不足で「矛盾」が危機を増幅して社会問題となった。政府はこの4月から原発(行政)を規制、監督する機能を一体化する組織として環境省の中に原子力規制庁(atomic energy regulation agency)を設置する方針でいたが、閣僚の問責決議による野党の審議拒否の影響もあって延び延びとなってようやく同法案の国会審議が始まった。

 (2)大飯原発再稼働の安全判断、電力安定供給事情の対応でも、この原子力規制庁の設置が進まないことが原発安全性の確認、行政監督の不備、不足として野党、関係自治体からは問題視されてきた。

 この間、当時首相の原発事故現場への直接介入が収束対応の混乱を増幅したとの批判からその是非が問題となり、同法案の対案の野党自公案では政治家の介入を排除して、環境省の所管として専門家の合議で意思決定をする原子力規制委員会を同規制庁の上位に置くことを主張した。

 一方政府案では、首相が原子力規制庁の予算、長官の任命権を持ち、緊急時の高度の判断では首相に指揮権(the right of command)を保障するというものだ。

 (3)いづれの案でも、過去の①既得権益集団(原子力村)による原子力行政の自益有利支配の弊害と、②首相による現場政治介入の弊害を念頭に置いての首相と専門家の指揮系統の違いを際立たせるものとなった。

 将来にわたって原発をエネルギー源として活用するのか、再生可能エネルギーに転換するのかは政府の重要な国家目標、エネルギー政策であるから、それにもとづく原子力行政、原子力規制、監督(規制庁)権限が政府に及ばずに専門家に委ねられるというのは、統治方式としては一体性に欠けて実効性のないものだ。

 専門家の構成要件も意思決定に影響して冒頭例のような問題も多く、専門家が直接、国政の意思決定に参画する方式は議院内閣制、民主主義政治の原則にはそぐわないものだ。専門的知識、経験による規制チェック機関としての役割が適当だ。

 (4)高度な政治判断の指揮権は政策との整合性からも首相に委ねられるのが適当だが、透明性の高い情報公開、説明責任(accountability)、国会追認を義務付けることだ。
 原子力規制庁の設置によって情報収集、伝達、公開の一体性で円滑で効果的な危機管理体制を構築するとともに、「うそ」と「改ざん」の電力、原発事業者の業界体質の一掃、変革こそ推進、実現すべきことだ。

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政治家の謝罪と責任。 apology and duty of politician

2012-05-29 20:06:42 | 日記
 (1)福島原発事故の国会事故調査会が6月報告に向けて当時の政府関係者を参考人として聴取している。当時の経産相、官房長官に昨日は当時の首相が呼ばれた(強制権限)。

 いづれも当時の対応に不備、不足、混乱があったことを認め、謝罪している。原発事故の危機的状況に何もしなかったとは思わないし、持ちうる能力としてやれるだけのことはやったのだろうが、いとも簡単に不備、不足、混乱を謝罪してはみせても当時相応の適当な政治責任を取ったとは思えないし、いまだに閣僚として開き直ったような厚顔振りの議員もいて、国民の付託を受けて国政に政治責任を負う者としての「謝罪(apology)」の意義、意味が口先きだけの中身のともなわないもので、現在の政治不信をただ助長するばかりだ。

 昨日の首相も「最大の責任は国にある」と認めたうえで、しかし自身の判断、行動については正当性を主張し国の危機管理能力、組織力学の不備、不足に責任転嫁するだけの無責任振りをただ公にしただけのことだ。

 (2)首相としては、そこを含めた国の統治能力(government)全般に政治責任を負うべきもので、国の最大責任を認めたうえでの首相個人の自己擁護論との比較認識の落差の大きさに、今更ながらのあまりの政治家の器の小ささに落胆させられると同時に、社会規律のパラダイム(paradigm)として他よりもまして政治は謝罪(apology)と相応の責任(duty)が一体化するものであることが原理原則だ。

 現在も閣僚として活動する当時の官房長官は別として、当時の首相も経産相もその後辞任したではないかと思われるが、その後の政治行動で当時の政治判断、行動への謝罪に匹敵する政治責任を取っているかと思えば、ただ表舞台から姿を消しての責任転嫁のうらみ節ばかりだ。

 これを聞いた被災地・地元からは「今さら反省されたり謝ったりされても」、「(責任転嫁では)何の解決にもつながらない」、「謝罪なら早く補償と除染を」と切実な厳しい声が相次いだ。

 (3)聴取最後にこの当時の首相が強調したのが、原子力村といわれる政府、事業者、専門家の既得権益トライアングルが相応の事故への反省もなく、今も原子力行政の実権を握り続けようとしていると批判したことだ。

 国会事故調査委員会は、東電会長、原子力安全委員長も聴取しているが十分に切り込んだものではなく、「うそ」と「改ざん」の歴史の原発事業者、原子力村といわれる既得権益集団の実体、弊害についても合わせて同率に解明しなければならない。
 二度と国民の安全よりは経済性、効率性、開発性の国策優先などという古い時代のオカルト(occult)復活など許してはならないことだ。

 (4)当時の首相は在任中からの主張の「脱原発」を事故体験として再度強調してみせたが、政府、民主党内にはいまだに原発の取り扱い、将来のエネルギー政策の展望、対策を示せないでいる。

 政治家の言葉も約束も随分と軽いものだ(それが政治不信を招いて)と、いつも認識させられてきた。なにしろ最近の話題は、現首相が同じ民主党の元代表と会うこと、会って説得することに集中している異常さだ。

 デフレ、円高不況に雇用不安の中、消費税増税に「政治生命を懸ける」とか、元代表と会って説得することが「一期(ご)一会(え)」とのエキセントリック(eccentric)な言葉が首相の口から出ては、政治家の謝罪と反省もその程度のもの(パフォーマンス)かと心寂しくなるばかりだ。

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弁護士出身の政治家群。 politician group from the ranks of the barrister

2012-05-28 19:59:45 | 日記
 (1)弁護士出身の政治家(politicians from the ranks of the barrister)が特徴になりつつある政界だ。民主党でも仙石、枝野さんと主要閣僚の経験者も多くて、首長では橋下大阪市長がよく知られていて、いづれも言動、行動で話題性も多く独断、一徹な(よくいえば筋を曲げない)主義主張で、ひとり突出した孤立した存在感である。

 社会正義のパラダイム(paradigm)としての弁護士のイメージとはかけ離れたエキセントリック(eccentric)な言動、行動で、だから政治家を志したといえば現在の政治の低迷そのもの、変に納得させるもので有難くない話だ。

 弁護士業務は、人が人を裁く不条理の世界で原告の公権力(検察)に対して、わずかであっても被告の人権弁護を不利益を擁護する仕事だから、結局は社会制度、仕組みの利益、不利益の壁に突きあたってさらに不条理性(unreasonableness)を実感させられるものだ。

 (2)政治の世界で社会の不条理性を少しでも緩和したいという、社会正義、公平性の優劣をはっきりつけたい意向にかられるのもうなずける弁護士出身の政治家転身の傾向だ。
 大阪維新の会の橋下大阪市長の大阪都構想を推進力とした地域政党の国政参画ムーブメントが既成政党不支持層の増加(50%)とあいまって発信力、影響力を持ってきたが、今度は弁護士出身の全国の市長13人を結束して全国弁護士市長会が発足した。

 「国政レベルで制定できない法律を地方の条例という形で制定して、~国のあり方を考える」(報道)というものだ。
 橋下市長も積極的ではないにしろ名前を連ねており、その橋下市長は社会正義をわかりやすく切り出しても極端に偏向して正当化した条例案(教育施行条例、職員規則条例)を打ち出して注目は集めている。

 職員の政治行動、選挙支援チェックのためにメールの無断検閲、政治活動アンケート調査を実施したり(指摘をうけて中断)、教員、公務員への処分、罰則規定を設けるなど「目的の正当化」のための「手法」に人権侵害、違法性を含めた問題点も多い。

 (3)社会正義のパラダイムとしての弁護士感覚で感じた不条理性を一気に解決しようという正義観念ばかりが先行して、わずかであっても反対の立場の不利益を擁護しようという弁護士視点、寛容さに欠けて、政治感覚としては危うさを伺わせるものだ。

 ただし、手法、方向性には問題があっても政治の透明性、何をやろうとしているのかの具体性がよくわかることでは、今までの政治家群像にはなかった特徴で国民の支持が高い理由だ。弁護士的一面性はある。

 (4)冒頭を含めたこういう突出した事例は、弁護士的思考のなせるものなのか、個人の人格、資質の問題なのかはそれぞれのケースもあるだろうが、弁護士出身の政治家が表舞台に登場して民主主義の理念が曲解されてパラドックス(paradox)として独断、独善政治のケースも目につく。それが自らの手によるマニフェストの崩壊を導いた。

 全国弁護士市長会結成も、「法律知識で国を動かす」と言って、既得権益(保護・実現)から見た政治手法とも受け取られて従来の目的のためには手法、手段を選ばない圧力団体まがいの先例(former example)印象はある。

 (5)弁護士出身政治家のこれまでのエキセントリックに突出した政治行動、傾向からも、わずかの不利益も擁護する弁護士視点、寛容さが生かされる本来の政治姿勢を発揮できるのか、まずは自浄改革努力が求められる。

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愛国心と登山。 patriotism and mountaineering

2012-05-27 19:28:26 | 日記
 (1)愛国心(patriotism)というのは実に不思議なものだ。もちろん、本当は愛国心の定義など複雑多岐でむずかしいから、ここは国を愛する独立、自立の精神性とでもしよう。
 社会、世界がグローバル化して日本人も世界各地で世界人として行動、活躍範囲も各段に広がっているし、その逆輸入で世界各地から世界人を日本に受け入れて共存共栄もしている時代だ。

 ましてそれ以前から日本人でありながら英国人のビートルズに熱をあげてきた訳だし、かと言ってオリンピックとなるとそういう英国に勝ってほしいと思わずに、やはり日本をただ応援するという不思議な精神性の始末だ。

 (2)それぞれに生まれたところが人種の特徴にすぎずに、その偶然性のだけのことで誰もが人間として共通していることを見れば、もちろん民族としての優劣など必要もない。
 それはただ「人」と人との対峙の関係にすぎないが、「国」という定義にはめられると途端に個性としての人ではなくて、塊(かたまり)としての国民となる。

 それだけのことで政治、経済、文化、教育、スポーツありとあらゆる分野での比較競争原理が機能する、働くから不思議なもので、愛国心も芽生える。

 (3)7月のロンドンオリンピックに向けて各種目で出場権を懸けて厳しい戦いが続いている。国内だけの選考となれば別だが、国同士が出場を懸けて争う競技種目となると当然日本を応援してそのために出場を逃す国のことは気にもかけない。

 女子バレー日本代表はオリンピック出場まであと1勝と迫りながら昨日はロシアに敗北して、今日の最終セビリア戦にオリンピック出場を懸けることになった。それによって出場を逃す国のことは気にもかけずに女子バレー日本代表の勝利を願うばかりだ。

 同国のよしみで愛国心のひとつといえる精神性だ。相手国にたとえお気に入りのスパープレーヤーがいてもここは日本代表のオリンピック出場を強く願うばかりだ。

 (4)そうしていたら、世界にある8千メートル級の山14座(14山・日本にはない)を世界の登山家(mountaineer)28人は全山踏破しているのに日本人登山家はいまだ未踏破なのに挑戦して、日本人登山家竹内洋岳さんが日本時間26日8時45分に最後のダウラギリ(標高8167メートル)の登頂に成功して、日本人登山家として初めて8千メートル級全14座(山)登頂踏破した。(報道)

 07年に雪崩に遭い致命的な骨折重傷も負い、再起を果たしての18年をかけて日本人初の挑戦心による制覇だった。

 (5)現代社会は通信衛星による現在地点の確認もオンタイムで表示される科学登山の時代だ。きっかけは世界で28人もいる14座(山)踏破に日本人登山家がひとりもいないこと(挑戦心)だった。(報道)

 8千メートル級登山となると、シェルパなど多国籍の編成チームによる(極地法)ものが一般的だが、竹内さんは途中からは海外の登山家との少人数でチームを組んでの無酸素登頂(アルパイン・スタイル)での達成だった。
 それでもオール・ユニバースによるチーム編成だ。あまり国の意識・連帯の薄い登山分野ではあるが、一方では山頂に国旗を掲げる高揚感もよく見かける光景ではある。

 愛国心というのは、グローバル精神性の中で支えられてこその独立、自立心なのだ。他国、他民族を否定しての抑圧、排除しての愛国心など存在しない、尊い方程式であることは間違いない。

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