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オールドゲーマーの、アーケードゲームとその周辺の記憶

コインマシンやギャンブルゲームやカジノの歴史的エピソードとか、時々カジノ旅行記とか、たまにスポーツやマンガとか。

大阪レゲエ紀行(3) DAY 1・午後その2:KINACO(日本橋)

2019年03月24日 21時26分34秒 | ロケーション
【午後その2の予定】・KZさんとシルバーボールプラネットで落ち合い、その後一緒にATARIのオリジナル筐体を収集して稼働している「KINACO」に行く。
以上。

【心斎橋:ザ・シルバーボールプラネット(アゲイン)】
ホテルの部屋で、スマホへの充電を兼ねて撮影した写真をバックアップのためにPCに取り込んだ後、再びシルバーボールプラネットに向かう。まだ多少時間があったので、「SPACE SHUTTLE(Williams, 1984)」を始めたら、これが何と100円で4ゲームのサービス台だった。さらに、右のアウトレーンに落ちたボールを救済するゲートが開きっぱなしで難度が落ちている(これは敢えてそうしているとのこと)上、リプレイとなるスコアの設定も低いので、ゲームがなかなか終わらない。それどころかクレジットが増える事さえあり、KZさんが到着した時もまだ4クレジットも残っていた。

KZさんは、ワタシとは初対面となるご友人を一人お連れになっていたので、3Pプレイにしてクレジットを使い切ろうとしたが、皆さんも上手なのでいくらやってもクレジットが減らない。やむなくゲームを始める状態から電ブチしてクレジットを消して、KINACOに向かうことにした。「KINACO」とは、米国ATARI社の、オリジナル筐体の状態にあるビデオゲーム機を集めたゲーセンである。オープンは2014年の秋とのことらしいのだが、ワタシがここを知ったのはつい半年ほど前、SNSを通じてのことだった。なんたる不覚。

【日本橋:KINACO】
KZさんたちと電車に乗り、KINACOに向かう。どこかで一度乗り換えて、「大阪の秋葉原」とも形容される「日本橋(にっぽんばし)」の最寄り駅「恵美須町」という駅で降りたのが午後4時頃。駅から地上に出て目の前を通る幹線道路「堺筋」では、この日大規模なコスプレイベントが行われていたらしいが、我々が到着した時には既に終了しており、お祭り騒ぎは沈静化していた。僅かに、駅から「KINACO」までの道すがら、時々コスプレイヤーを見かける程度だった。5分ほど歩くと、KINACOが見えてきた。


KINACO外観。一軒家の1階の右半分で、左半分はラーメン店になっている。以前は何かの商店だったのだろうか。半ば閉じかけたシャッターで開店を怪しんでいるのか、アベックが中の様子を怪訝そうにうかがっていた。


 
KINACO店内。入り口から奥を見たところと、奥から入り口を見たところ。奥行きはあるが幅が狭い店内の左右に、アップライトのゲーム筐体が並ぶ。

今回、この「KINACO」にワタシが最も期待していたのは、白黒のベクタースキャン方式のビデオゲーム「LUNAR LANDER (1979)」だった。上空を飛行する月着陸船の着陸点を判断し、限られた燃料で船の姿勢とロケット噴射を調整して、月面の平地に軟着陸させることが出来れば成功となる。




LUNAR LANDERの筐体(画面は嵌め込み合成)とコンパネ部分。


LUNAR LANDERのゲーム画面。

アポロ計画をリアルタイムで見てきた世代のワタシにとって、LUNAR LANDERはとてつもなくカッコ良く見えた。高度と水平方向/垂直方向の速度の事務的な表示にも痺れて、ハマった。ゲームを続けていくうちに、重力の強さと大気との摩擦という外的条件が異なる4種類のゲームモードをゲーム中に適宜切り替えることで、消費する燃料を節約するという裏技も発明した。

果たしてKINACOに、LUNAR LANDERは設置されていた。しかし、電圧が不安定だかなんだかですぐにヒューズが飛んでしまうということで、電源は切られていた。残念がるワタシを見てKZさんが動いてくれた。KZさんはKINACOの店主とも親しいらしく、何とか動かすことはできないかと掛け合ってくれた結果、応急的な処置をすれば短時間なら動かせるかもしれないと言って、キャビネットを引き出して修理をしてくれた。しばらくして、「とりあえず治ったけど、いつまた飛ぶかわからないからモタモタはしていられないよ」と言ってくれた。

喜んで100円硬貨を投入すると、900の燃料が加算された。昔は750が標準的だったので、「良心的価格設定」だ。ワタシはかつて、その750の燃料で3回軟着陸を成功できたものだったが、今はゲームの要領をすっかり忘れてしまっていて、結局一度も軟着陸はできなかった。しかし、約40年ぶりにまたオリジナル筐体で遊べたことはまったくもって感激の極みで、これで大阪まで来た甲斐があったというものだ。

ワタシがプレイを終えて少し後に、懸念されていた通り電源が飛んだ。こんな不安定なものを無理やり動かしてくださったKINACOの店主さまと、掛け合ってくれたKZさんとご協力くださったご友人の皆さんには心から感謝いたします。どうもありがとうございました。

「ATARI」の最盛期と言えるのは、事実上の初の商用ビデオゲーム機「PONG」が発表された1972年から1980年代中ごろまでだと思う。90年代にはその名前を聞く機会も少なくなり、2000年代にはほとんどなくなってしまった。それにもかかわらず、今さらながらKINACOというロケができ、そのKINACOを訪れる人が絶えないほど、今も「ATARI」の名とロゴは強い光を放ち続けている。

【KINACO・ゲーム機リスト】(リスト漏れの機械が若干あるかも)
(ATARI製のゲーム)
・LUNAR LANDER (1979)
・Asteroids(1979)
・Missile Command(1980)
・Tempest(1981)
・Black Widow(1982)
・Gravitar(1982)
・Quantum (1982)
・Star Wars: The Empire Strikes Back (1982)
・Major Havoc(1983)
・Paper Boy(1984)
・Marble Madness(1984)
・Peter Pack Rat(1985)。
・Road Runner(1985)
・720°(1986)
・Race Drivin' (1990)
・Rampart(1990)の筐体に入ったKLAX(1990)
・Pit Fighter(1990)

(ATARI以外のゲーム)
・STAR TREK(sega, 1983
・Robotron 2084(Williams, 1982)
・Punch Out!! (Nintendo, 1984)

レゲエファンには強くお勧めしたいロケだが、原則として日祝日しか営業していないので、事前にSNSなどで営業時間を確認しておきたい。ここではKANACOのfacebookを紹介しておく。
https://www.facebook.com/kinacogames/
大阪市浪速区日本橋5-10-14

(「DAY 1(4)・午後その3」 につづく)

大阪レゲエ紀行(2) DAY 1・午後その1:シルバーボールプラネット(心斎橋)

2019年03月23日 16時05分34秒 | ロケーション

********** はじめにおことわり **********
女房から、「前回の記事が長すぎて、スマホでは読みづらい」と苦情が来ました。めったにない機会の出来事を余さず記録しておきたいのと、何しろ思い入れの強い分野なのであれもこれも述べておきたいという欲が働いた結果だったこともありますが、ワタシにとって基本はあくまでもPCで、セカンダリであるスマホでの見え具合には考えが及んでいませんでした。

しかし、今どきのナウなヤング(死語)の中には、何でもスマホで用を足すのでPCは殆ど使えないという人も増えていると聞きます。と言うわけで、今後は記事をもう少し細切れにして更新していこうと思います。

現行の更新頻度(週一回)では同じテーマが長期間に及んでしまう問題については、更新頻度を上げることで対応します。ページを分割するという方法もあるようですが、少し面倒な問題も起きる可能性がありそうなので、とりあえず検討対象からは外します。


********** これより今回の記事 **********
【午後その1の予定】
・昼ころに心斎橋に移動して、ホテルのチェックイン受付までシルバーボールプラネットで過ごす。
・ホテルチェックイン
以上。

【心斎橋:ザ・シルバーボールプラネット】
昼過ぎ、地下鉄御堂筋線の動物園前駅を出て、心斎橋駅に到着。Googleマップを頼りにシルバーボールプラネットに向かい、多少まごつきながらも無事に辿り着く。

シルバーボールプラネットはピンボール専門のゲームセンターで、公称では100台以上設置しており、「そこそこ世界一(たぶん)」と自称している。世界一は言い過ぎだが、ピンボール全盛だった過去を含んでも、他の追随を許さない日本一のロケであることは間違いないと思う。訪れている客は、ワタシのような古いリアルタイマーよりも若い世代の方がむしろ多いように見える。アベックや、欧米系の外国人もちらほら見かける。まったく、大阪の人がうらやましい。


1)シルバーボールプラネットの店頭。 (2)正面の間口より広い脇の部分はガラス張りになっており、ある程度店内が見渡せる。 (3)店内の様子その1。 (2)店内の様子その2。装飾が少なく、すっきりスマートな雰囲気がかえっておしゃれに思える。

入り口のすぐ左手に、スターン・ピンボール社の「PRIMUS」と「THE PABST CAN CRUSHER」の2台を発見。タイトルは異なるが、ゲーム内容は同じようだ。


スターン・ピンボール社の「PRIMUS」(左)と「THE PABST CAN CRUSHER」(右)。得点表示が4桁であることからわかるように、60年代半ば以前の機械を意識した造りになっている。

このプレイフィールドはどうも過去に見たことがある気がするので後で調べてみたら、これらは2015年にWhizbang Pinball合同会社が作りスターンがライセンス生産した「WHOA NELLIE! Big Juicy Melons」のスキン換え(同じゲーム内容でアートワークを変えたもの)であった。


「WHOA NELLIE! Big Juicy Melons (Whizbang Pinball/Stern, 2015)」の筐体。この写真は2016年9月にラスベガスのピンボール・ホール・オブ・フェイムで撮影したもの。

「WHOA NELLIE! Big Juicy Melons」は、数年前からラスベガスの「ピンボール・ホール・オブ・フェイム(PHoF)」に設置されていたが、ゲーム料金が高かったので不覚にも遊んではいなかった。以前に調べたところによると、「NELLIE (Nelly)」とは、犬はポチ、猫はタマと決まっているように、馬やロバに付けられる名前だそうだ。そして、「WHOA NELLIE!」または「Whoa there, Nelly!」という一種の成句のようなものがあって、「どうどう(止まれ)、ネリー!」などと訳すらしい。しかし、「Whoa」には「Whoah」という異なる綴りがあり、更にこれに音も綴りも似る「Whore」という言葉がまたあって、こちらは「尻軽女」「ビッチ」の意味になる。そしてバックグラスのアートワークを見ると、このタイトルはむしろそれを暗喩しようとしているように思える。


「WHOA NELLIE! Big Juicy Melons」のバックグラス。ブロンドの若いねえちゃんが二つのメロンを胸の高さに掲げて、「π乙χDよ~ん♡」と男をそそのかしている風にも見える。タイトルに付け加えられている「Ripe 'N' Ready」の文字は、「熟れて食べごろ」とでも訳すのだろうか。これらを暗喩的と思うのは、ワタシが「ダケさん」(前回の記事参照)みたいな昭和オヤジだからだろうか。

こういう追及は楽しいのだが、記事が長くなるばかりで記録が先に進まない(反省)。設置機種の殆どはソリッドステート(SS)機だが、ワタシの好みである1980年代初頭以前の、マルチレベルやランプレーンでプレイフィールド上がゴテゴテとしていない機種もそこそこにあって嬉しい。

100円2ゲーム、100円4ゲーム、50円1ゲーム、10円1ゲームなどと言うサービス台もある。ただ、そのようなディスカウント台は、弱いフリッパーがあったり、動作やサウンドが完全でなかったり、あるいは他の機械から持ってきた部品で何とか補修しているなど、必ずしも完璧な状態でない場合が多く、だからこそのディスカウントなのかもしれない。しかし、それを直ちに非難する気にはなれない。現時点ではこれ以上どうしようもない、またはメンテナンスが追い付かないということであろうし、部品の調達も簡単ではない現在においては良く頑張っていると感心することの方が多い。

【心斎橋:ハートンホテル】
シルバーボールプラネットであれもこれもと遊んでいるうちに2時になったので、隣のブロックにある「ハートンホテル心斎橋」にチェックインする。部屋は標準的なビジネスホテルのシングル程度に狭いが、清潔で、レセプションの対応も気持ちよく、設備も整っている上に、立地が素晴らしい。もしまた一人で大阪に来ることがあれば、積極的に利用したいと思える。


ハートンホテル心斎橋の室内。(1)部屋の中。12平米とのこと。 (2) ベッド側から見た室内。 (3)机の上。十分な電源、湯沸かしポットの他、角の机下には冷蔵庫もある。また、無料で使えるWIFIもあるが、有線LANも用意されている。 (4)バスルーム。さすがに狭い。

昨年末にオールドゲームのコミュニティ繋がりで知り合ったKZさんとメッセージをやり取りして、2時半ころにシルバーボールプラネットで落ち合い、その後にKINACOに向かうことで話をまとめてから、再びシルバーボールプラネットに戻った。

(「DAY 1・午後その2」 につづく)


大阪レゲエ紀行2019(1) DAY 1・午前

2019年03月17日 22時16分02秒 | ロケーション
2019年3月9日(土)~10日(日)、レゲエ(レトロゲーム=オールドゲーム)を求めて大阪に行ってまいりました。かねてよりワタクシ的懸案事項であった「シルバーボールプラネット」と「KINACO」はもちろんのこと、過去に訪問したことのあるロケーションもこの機会に久しぶりに覗いて参りましたので、今回から何回かに分けて、その記録を残しておこうと思います。

【出発準備】
今回うろつく主な地域は、北は心斎橋周辺から、南はジャンジャン横丁(天王寺)周辺まで。大阪までの運賃は意外にも飛行機の方が新幹線よりも安かったが、空港から目的地までの移動がやや大変なのと、JRが新幹線往復+絶好の立地にあるビジネスホテル1泊込みで3万円強というパッケージを出していたので、新幹線を選ぶ。

【1日目の行動予定】
・朝7時東京発の新幹線で新大阪着は10時過ぎ。
・ホテルのチェックイン(2時)まで、天王寺界隈とシルバーボールプラネットで過ごす。
・ホテルにチェックイン後、現地に詳しいKZさんとシルバーボールプラネットで合流し、KINACOへ。
・KINACOからKZさんと共にTVタウンポパイに「ザ・ダービーMKV」を見に行く。
・ポパイからKZと共に、KTさんのオフィスへ。

以上。

【出発当日の朝】
7時過ぎに東京駅を出るのぞみ号に乗るため、朝5時20分に起きて身支度を整え、5時40分に家を出る。東の空には朝焼けが見えた。最寄り駅から電車に乗ると、この時間なのにもうそこそこの人がいる。東京駅に着いたのは6時半ころだが、駅構内は既に平日の朝のラッシュアワーに迫る人ごみ。外国人やスノーボードを抱えている人も多い。「のぞみ号」に乗り込み、朝食のつもりで売店で買ったサンドイッチを食べたら、ほどなくして眠り込んでしまう。目が覚めたら京都に着くところだった。

【大阪到着】
新大阪駅到着は10時過ぎ。地下鉄乗り場の案内窓口に行き、オールドゲーム繋がりの知人であるKZさんから予めいただいていたアドバイスに従い、平日は700円のところ週末は600円だという一日乗車券を買って御堂筋線に乗り、動物園前で降りて、新世界の「かすが娯楽場」と「ニュースター」を目指す。

【新世界その1:秘宝館(射的場)】
動物園前で下車してジャンジャン横丁に入ると、まだ朝の10時半だというのに長蛇の列ができている串カツ店があった。ジャンジャン横丁には他にもたくさんの串カツ店を含む飲食店が開店していたが、他はどこも混雑はしていない。「大阪では高かったりうまくない店はすぐにつぶれる」とはよく聞くが、こんなに差が出るものなのだろうか。何がそんなに違うのだろうか。

更に進むと、右手に「かすが娯楽場」が見えてきた。最後にここを訪れたのは2011年のことなので(関連記事:かすが娯楽場(大阪)の記憶)、およそ8年ぶりになる。かすが娯楽場は一昨年の11月に放火の被害(店頭に設置してあったガチャポン販売機から小銭を盗もうとして火をつけたというなんともトホホ極まりない事件)を受けたが、門構えをリニューアルして見事に復活してくださっていたのだった。

 
事件前のかすが娯楽場(2011年撮影)と、現在の姿(今回撮影)。リニューアル後はブラックマスクの精悍な門構えとなっている。事件前の店頭にあった「KING OF KINGS」の光看板は焼けてしまったとのことだが、「ボッチャンもトウチャンも」の看板は無事に残っていた。

そのかすが娯楽場の向かいには、なんと射的の店「秘宝館」がある。前回来た時、ここは確か将棋道場ではなかったっけか(後で調べたら、秘宝館の開業は2016年2月とのこと。もう丸三年になっている)。ワタシ的にはニュースポットなので、かすが娯楽場に入る前に見学させていただいた。


2軒の射的場を並べている「秘宝館」だが、向かって右の店のカウンターには「←となりへどうぞ!」と書かれた段ボールのスタンドが立てられ、この時は稼働はしていなかった。(1)向かって左の店。 (2)向かって右の店。 (3)2店はこんな感じで繋がっている。


ゲーム料金は6発500円とのことだが、殆どの景品は、一般の商店で1個150円前後程度で売られている菓子類。どうせトクすることを期待して遊ぶゲームではないので安い景品自体は構わないとは言え、せっかくの射的なのに、テキヤで見られる景品のようなアヤシサが足りないところは少し寂しい。


秘宝館の貼り紙。「空打ち厳禁」はわかるとして、「実弾禁止」は面白い冗談じゃないのと内心笑っていたら、ワタシがこのレゲエ紀行から東京に戻った日の深夜に、今回のワタシの行動範囲内にあった中央区宗右衛門町で二人が銃で撃たれて意識不明という事件が起きていた。((((;゚д゚))))アワワワワ

それにしても、今はもう、射的の銃やコルク玉を製造しているところはほとんど存在していないのではないか。おそらくは、例えば廃業するテキヤから引き取るなどしたものだと思うが、メンテナンスだって必要だろう。我々オールドゲーマーにありがちな「失われゆく風俗文化を残したい」などと言う意気込みでもあればそれも可能だとは思うが、いかにも大阪の陽気で愛想の良いおばちゃんと言う印象を得る中年女性が店員をしている秘宝館からは、そんな気負いは微塵も感じられない。どうあれ、こういうものは残っているだけで嬉しい。ありがとう、秘宝館。

【天王寺その2:かすが娯楽場】
ワタシにとってのニュースポットだった秘宝館を一通り眺めたのち、かすが娯楽場に入る。8年前に来たときはメダルゲームは殆どなかったように記憶していたのだが、今回は店内の半分程度がメダルコーナーになっていた。現在の主流であるプッシャーもあるにはあるが、驚いたのは、sigmaのメカスロが並んでおり、更にそのメカスロで複数の客が熱心に遊んでいることだった。


(1)Mr. Do(ユニバーサル、1982) (2)左がドラゴンバスター(ナムコ、1985)、右が源平討魔伝(ナムコ、1986) (3)GOLD 7(sigma, 発表年不詳(1990頃?))とSILVER 7(同)が並ぶバンク。この向かい側にもやはりsigmaのメカスロとエイトウェイズ類が並んでおり、そちらでは何人かの客が熱心に遊んでいた。うち一人は大量のメダルを持って、マックスベットで遊んでいた。 (4)sigmaのメカスロ「NOW PLAYING」と「MARINE BLUE」の2種。これらも発表年は不明だが、共にビデオスロットでも同名のタイトルがあった。

ビデオゲームでは、「ドラゴンバスター」をおそらく35年ぶりくらいにやってみたら、自分でも驚くほど下手になっていた。他に「源平討魔伝」や「Mr. Do!」などもあったが、これらは見るだけ。一つの筐体で複数のゲームが遊べる仕様になっているものが多く、おそらくはエミュレーターと思われる。

店内には10人ほどの客が入っていたが、そのおそらく全員が、ワタシよりも人生の先輩であるように見える。さっきから「テトリス」を延々とやっている男性の見かけはマンガ「ヒカルの碁」に登場する悪役「ダケさん」そっくりの風貌だが、それに似合わずというべきか違わずというべきか悩むが、舌を巻くうまさだった。後で人から聞いたところによると、どうもかすが娯楽場では有名なテトリスプレイヤーらしかった。


マンガ「ヒカルの碁」に登場する「ダケさん」(ジャンパー姿のおやじ)。ただの下品な中年オヤジに見えるが、実はとんでもないハスラーで、碁会所で不正な碁を打って小遣い稼ぎを繰り返す中学生に手痛い「お仕置き」をする。

【天王寺その3:ニュースター(スマートボール)】
天王寺界隈を徘徊するのは4回目だが、「ニュースター」は必ず覗いている。設置されている機種は「スマートボール」のみで、7~80台ほどもあるだろうか。スマートボールの歴史には詳らかではないが、1968年の時点で既に従来のパチンコに併設、営業されていたことまではわかっている。しかし、オリンピアと同様1970年代の早い時期から衰退し、現在残っている台数は、日本に生息する絶滅危惧種の鳥類トキよりもさらに少ない(トキ348羽(2019年3月時点)、スマートボール244台(2016年時点・風俗第4号営業に限る))。

ニュースターには始終客の出入りがあったものの、常に少なくとも10人以上の客がいたように思う。その年齢層は幅広く、平均的にはかすが娯楽場よりもずっと若そうだ。また、その多くはアベックとは言え、女性の比率も低くない。


(1)ニュースターの入り口。風俗4号営業なので、「風営法により保護者同伴の場合も含め18歳未満の方の入場をおとこわりしています あしからずご了承ください」との立て看板が立っている。 (2)店内の一部の様子。この画像の中に4人の女性客がいる。 (3)スマートボール。 (4)スマートボールの裏側。「ソリッドステート」などと言う言葉が無縁の、純粋なエレメカ。

提供する景品(法律上は賞品)は前述の秘宝館に似て、一般の小売店で100~300円前後くらいで販売されている菓子類が多い。つまるところ、「ちょっと遊んで、お菓子の一つ二つももらえれば儲けもの」というレベルの娯楽で、誰も儲けようと思ってなどいない。この程度の賞品提供なら、例えば保護者同伴であれば年少者の立ち入りを許しても良いと思う。リデンプション機とともに、行政には規制の緩和を考えてもらいたいものだ。


景品棚の様子。安い菓子類ばかり。

このような貴重な娯楽場には末永くがんばってもらいたいので、ワタシもお布施のつもりで数百円分遊ぶ。1球打っては結果を見届け、ということを繰り返していると、それでも結構な時間を遊べる。もちろん景品などは期待していない。

【天王寺その4:ニュースター(ゲーム)】
スマートボールのニュースターの並びには、もう一つ、ビデオゲーム専門店の「ニュースター」の入り口がある。地元の人に聞くところでは、以前はこの部分もスマートボール場だったとのことなので、同系列なのかもしれない。店内はL字型で、反対側の端はジャンジャン横丁の入り口に通じる出入り口になっている。


(1)スマートボール場の入り口に並ぶ、ゲーセンのニュースターの入り口。ガチャポン販売機から左がゲーセン部分だが、以前はここもスマートボール場だったと聞く。 (2)ジャンジャン横丁側の入り口。店内は中でL字型に曲がって、(1)の出入り口に続く。 (3)スマートボール店側の入り口から店内奥を見たところ。 (4)ジャンジャン横丁側の入り口から店内奥を見たところ。

設置されているゲーム機は、麻雀、テトリス、コラムス、上海などで、今風のものはない。客層はかすが娯楽場と同じく、高齢の男性ばかりであった。

【天王寺その5:ザリガニ】
再びジャンジャン横丁に入り、前回来た時にはなかったと思う「レトロゲーセンザリガニ」に入る。事前にネット上で調べておいた段階ではビデオゲームも置いてあったように思ったが、「UFOアラカルト」が2台と、ミニクレーンが1台あるだけだった。景品はアダルトモノばかりで、AOU(日本のゲーセンの業者団体)的にはアウト臭い。


(1)下着類を景品とするUFOアラカルト。 (2)アダルトグッズを景品とするUFOアラカルト。 (3)ゲーム料金は100円1ゲーム、500円で6ゲーム。「トラブル時は隣の射的屋まで」と貼り紙があるので、オペレーターが秘宝館と同一か、少なくとも連携しているロケに思われる。 (4)筐体から取り外されたマーキーは、店の奥に無造作に置かれたままだった。

店の入り口の多数のガシャポンは、1回500円。中身は知れないものの、アダルトモノが出てくるものであるようだ。ちょうど数人の若者グループが面白がってこれを買っていたようだった。その一部始終は見てはいなかったが、どうもすごくつまらないものが出て来ていたらしかった。これと同じガシャポンは射的の秘宝館にもあった。


ザリガニ前のガシャポン。1回500円。

(長くなってしまったので、今回はDAY 1の午前までとして、午後は次回につづきます)

ピンボール・ホール・オブ・フェイム(ラスベガス)、移転か?

2018年08月26日 22時51分10秒 | ロケーション
多数の新旧のピンボールゲームをプレイヤブルな状態で公開する博物館として日本ばかりでなく世界のオールドゲームファンにとって聖地となっている「Pinball Hall of Fame(PHoF)」が、現在の所在地から移転する可能性が出てきました。

ラスベガス・レビュージャーナル紙は7月30日、PHoFのオーナー、ティム・アーノルド氏(62)は、ストリップエリアの繁華街の南端に、1.76エーカー(建物は約2500平方メートルを計画)の土地を購入したと報じました。

現在のPHoFはトロピカーナ通り沿いにあり、0.65エーカー(建物は約800平方メートル)の施設の中に200台ほどのピンボール機を設置していますが、ティムが所有するピンボール機は1000台あるとされており、それらはストレージに眠ったままになっています。これでは意味がないと考えたティムは、より広い土地を求めてこの土地を購入したとのことです。

ティムが新たに購入した土地は、ストリップエリアの繁華街の最南端に位置し、カジノホテル「マンダレイベイ・リゾート・アンド・カジノ」の最南端と、ストリップを挟んだ向かいになります。この空き地は、昨年の10月に全米最悪の銃撃事件となった「ラスベガス・シューティング」事件の被害を受けた空き地から1~2ブロック南になります。

ただし、新しいPHoFの計画はまだ確定しておらず、いつ着工されるかについてはまだ白紙状態とのことですので、当分の間は現在の場所で運営が続くようです。これからPHoFを訪れようとされる方は、事前に確認しておくことをお勧めします。


現在のPinball Hall of Fame(PHoF)。所在地は1610 E. Tropicana Ave.。ストリップからトロピカーナ通りを行き来するバス(201)で行くことも可能だが、降りるタイミングがつかみにくいので、タクシーで行く方が無難かも。距離は、ニューフォーコーナーから3㎞程度。帰りは降りるポイントを見失うことは無いと思われるので、バスでの移動でもむずかしくはない。


PHoFの店内の様子。古いエレメカ機やビデオゲームも若干ある。

ゲームファンタジア・ミラノ:メダルゲーム発祥の地

2017年09月26日 22時35分29秒 | ロケーション
(本記事は、2020年5月22日一部修正しました)
多忙のため更新が遅れております。今週末から今年最後(のはず)のラスベガス巡礼が控えており、今、更新しておかないとまた少し先になってしまいそうなので、なんとか頑張って更新します。

1971年12月18日、メダルゲームというジャンルを確立したsigma社により、新宿歌舞伎町の東急ミラノビルに、日本初の本格的なメダルゲーム場「ゲームファンタジア・ミラノ(以下、GFミラノ)」がオープンしました。

業界誌「アミューズメント産業」72年3月号の特集記事によれば、「地に真赤なジュウタンを敷いたミラノは、まるでお城にでも行ったかのような錯覚さえおぼえる」このロケの設備投資には1億円がかけられたとのことです。当時の1億円と言えば、現在の2.2億円くらい(大卒初任給の当時と現在の比較による推計)になります。ゲーム場が大型化し運営に大資本が関わることが当たり前の昨今ではたいした事もないように聞こえますが、この当時では破格の事であったことは想像に難くありません。

GFミラノは、運営会社であるsigma社がアルゼに吸収され、社名も「アドアーズ」に変更されたころから、「日本初!! メダルゲーム発祥の店」と謳うようになっていました。<修正ここから>実際は、sigma社は1968年から葛飾区新小岩のボウリング場で実験運営を始め、その翌年に渋谷と、さらに翌年に大田区池上のボウリング場でも実験を展開しています(関連記事:「メダルゲーム」の曙を見た記憶「メダルゲーム」という業態の発生から確立までの経緯をまとめてみた)が、GFミラノは既存の施設の付帯施設として行ってきた実験運営を離れ、単独店舗として本格運営に入ったという点で<修正ここまで>実質的にはあながちウソと言うわけでもないとは思います。


GFミラノの店頭に掲げられていた「メダルゲーム発祥の店」の看板。でも、この謳い文句に何かを感じるのはワタシのようなヘンなマニアだけで、「そうか、ではここでメダルゲームでもやってみるか」と思った人はいなかったと思う。

残念ながら、GFミラノ(最終的にはアドアーズミラノ)は、2014年12月23日を最後に、43年と6日の歴史に幕を閉じてしまいました。わずかなりとも救いに感じるのは、ゲームセンターがバタバタと閉店し、アーケードゲーム業界の市場規模縮小が言われて久しい中、GFミラノの閉店の理由が、東急ミラノビルの閉鎖に伴うものとされているところです。

70年代中ころから80年代には、ここの2F(3Fだったか?)にもピンボールビンゴ専門店「BINGO-IN」がありました。そしてまた、sigmaの旗艦店ということもあって、ワタシは、おそらく1978年ころから閉店まで、しばしばこの店舗で遊んでいたのですが、不思議なことに昔のことはあまり覚えていません。印象に残っていることと言えば、78~79年ころ、スギウラという高校時代の友人(関連記事:新宿・ゲームファンタジア・リトルサーカス&ビンゴイン・サブナードの記憶)がここで短期間バイトをしていたこと、フォーチュンコイン社製と思しきビデオスロット(関連記事:ワタクシ的ビデオポーカーの変遷(3) 米国内の動き)や、BINGO-INで「Bally Computer "21"」(関連記事:ワタクシ的「ビデオポーカー」の変遷(2)それ以前のビデオポーカー)、そしてなぜか写真ですら残っていない「ザ・ダービー・マークII」を遊んだことくらいのものです。

以下の画像は、GFミラノの店内に掲げられていた、初期のGFミラノの店内を示すパネルを、閉店前日に訪れて撮影しておいたものです。


GFミラノの入口。この画像が開店当時のものかどうかは不明だが、「ルーレットパーティ」の看板とアーチ状のエントランスには覚えがある。


sigmaとメダルゲームの歩みをブリーフィングしたパネル。


店内の様子その1。人っ子一人いないところを見ると、開業直前の様子だろうか。左の壁沿いにセガのダルマ筐体のスロットマシン(関連記事:セガのスロットマシンに関する思いつき話)が並んでいるのが見える。これがオリンピアかどうかは、この写真では判別できない。


店内の様子その2。左側に見えるバーリーの「5-Line Pay(1970)」は、当時としてはほぼニューマシンと言っても差し支えないものだったはず。


このゲーム機は、セガが1975年に発売した「Group Bingo」。ということは、この写真は開店直後に撮影されたものではない。なお、Group Bingoは、セガが1989年に発売した「Bingo Circus」の元ネタである。


上段右の「GOLDEN BALL」は、英国ストリーツ社製のペイアウトゲーム(製造年不明)。sigmaが1980年代終わりころにリメイクしているが、ヒットはしなかった。下段はピンボールビンゴに興じる人たち。


THE DERBY Vφ(関連記事:NASAが発明したゲーム機「ウィナーズ・サークル」)に興じる人たち。これも稼働は1975年からなので、開店当初に撮影されたものではないことがわかる。

これらの写真を見ていると、ワタシが最も馬鹿だった頃を過ごした場所としてむやみに懐かしくなります。他にもいろいろな写真がきっとあったことと思われますが、今でもどこかに保管されているのなら、なんとかウェブ上で良いので公開してほしいものです。