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オールドゲーマーの、アーケードゲームとその周辺の記憶

コインマシンやギャンブルゲームやカジノの歴史的エピソードとか、時々カジノ旅行記とか、たまにスポーツやマンガとか。

【小ネタ】本日のレゲエ日記:ゲーセンミカド(高田馬場)

2019年08月04日 22時23分45秒 | ロケーション
拙ブログは、最低でも週に一回の更新を目標にしております。しかしこのところ、何か書こうとしても、途中で「これを語るならこの部分をもっと掘り下げないと意味がない」などと考え込んでしまって、なかなか筆が進みません。ひょっとしてスランプというものなのでしょうか。

ブログの記事が全然進んでいないにもかかわらず、本日は、以前のボウリング仲間(ほとんどは職場の元同僚たち)と、久しぶりにボウリングをしに高田馬場に行ってしまいました。

高田馬場駅前の「BIG BOX」の8階には、古くよりボウリング場があります。本来ならマイボール、マイシューズで投げたいところですが、重いボールをホームレーンである川崎から持ち運んでくるのが億劫なので、マイシューズだけを持ち、ボールはハウスボールを使うつもりでセンターに到着したところ、このボウリング場には、マイボーラ―が要らなくなって置いていったボールを、「お試しマイボール」と称して通常のハウスボールと同じように無料で貸し出していたので、その中からメジャー(指穴のサイズや広さ等)が比較的近いものを選んで、4ゲームを投げてきました。

さて、高田馬場と言えば、レゲエファンの聖地の一つとされている「ミカド」があります。せっかく滅多に来ることのない高田馬場に来たのですから、ボウリング後の二次会でさんざん飲み食いした後で、その「ミカド」を覗いてみました。

以前、NHKでやっていたTV番組でこのゲーセンが取り上げられたのを観て、ミカドに置かれているゲームはワタシにとっては「レゲエ」と呼ぶには新しすぎるという先入観があったので、これまではそれほど積極的に足を運ぼうとは思っていませんでした。しかし、実際に店内に入ると、すぐ右手にはピンボール機が4台(いずれもSS機ではあるが)あるし、「ペンゴ」や「ドルアーガの塔」など、ワタシでもレゲエと呼んでも違和感のないゲーム機もいくらかはありました。

ここでワタシは、「Jacks to Open (Gottlieb/Mylstar, 1983)」というピンボール機にいくらかのお布施をしてきました。「Mylstar」とは、Gottliebがコロンビアピクチャーズの子会社だった時代に、コカ・コーラ社がコロンビアピクチャーズ社を買収したときに、Gottlieb社の社名を「Mylstar」に変更したものです。ただし、「Gottlieb」の名は、ブランド名として残りました(関連記事:【小ネタ】ピンボールのクレジットメーターに関する思いつき話)。






Jacks to Open。

「Jacks to Open 」は、Gottliebが1977年に発売した「Jacks Open」をリメイクしたもので、シンプルなゲーム性はワタシの好むところでした。

残りの3台は、「Dr. Dude And His Excellent Ray (Bally Midway / WMS, 1990)」、「The Addams Family(Bally Midway / WMS, 1992)」、「GODZZILA (SEGA / Stern, 1998)」で、これらは実はあまりワタシの好みではないのですが、それでも今では貴重なピンボールではあるので、今後もたまには「ミカド」にも行きお布施をしてこなければと思いました。

オマケ:BIGBOXの6Fにはタイトーのゲーセンが入っていました。ここにはメカの「PONG」(関連記事:JAEPOショウ2018で気になったこと3つ)が設置されていたので、ご報告しておきます。


BIG BOX6Fのタイトーのゲーセンに設置されていたメカの「PONG」。

ボウリングの結果は、4ゲーム投げてアベレージは175(1G・155 2G・180 3G・183 4G・182)でした。マイボールではなかった割にはそこそこ叩けましたが、まあ、これはどうでもいいですね。 

大阪レゲエ紀行(7・最終回)) DAY 2・その2:大阪駅前第2ビルB1「ZERO」

2019年04月14日 17時55分43秒 | ロケーション
昨夜、ktさんのオフィスで、「明日は新世界にいくつかあるらしい『ザリガニ』に行こうと思っている」と言ったところ、その場の皆さんから口をそろえて「それならむしろZEROに行っておくべきだ」とのアドバイスをいただいた。「ちょっと地理がわかりづらい」という懸念も挙がったが、「ZEROの『ウルトラガン』は必見だ」という」意見が多く発せられた。というわけで、この旅の最後はZEROを目指すことにした。

◆【ウルトラガン】
前回の記事で述べた経緯で大阪駅前第2ビルの中に入ると不思議な感覚に襲われた。あれ? ここは以前に一度来たことがあるのではないか? このチケット屋は、その時現地の知人の案内で帰りの新幹線の切符を買ったところではないか? そのついでで明石焼きを食べたのはこの店ではなかったか? 言われてみれば2000年前後ころに一度、一人で大阪に日帰りで来ていたことを急に思い出した。しかし、断片的な記憶がわずかに残るだけで、そもそもどういう用件でのことだったかすら思い出せない。狐か狸に化かされている気分で「ZERO」の前にたどり着くと、通路側に面するように設置されている何台かの古いエレメカ機が目に入った。その中に、話題となっていた「ウルトラガン」もあった。


ウルトラガンの筐体全体。60年代までは、この種のガンゲームはピンボールと並ぶ当時のゲーセンの定番だった。


(1)ウルトラガン筐体の上部。見えにくいが、ビルボードの右下には「ウルトラマン ウルトラQ (C)円谷特技プロダクション」と著作権表示がちゃんとある。この頃はまだそういう意識は高くはなかったはずなので、意外にさえ思える。 (2)筐体に据え付けられているガン。このガンは他のガンゲームにも流用されていたように思う。 (3)ウィンドウ内の様子。 ランプによるタマ数や、「まと1つ10点」などの表示は同じメーカー製(たぶん)の他のガンゲームでも使われていたのでよく覚えている。ひたすら懐かしい。 (4)プレイフィールドのアップ。ゲームが始まると、最前列の的は右から左へと移動するが、それ以外の的は固定されている。的中した的は後ろにパタンと倒れる。

ワタシは、「ウルトラガン」のメーカーと製造年を特定できていない。「ウルトラマン」の続編「ウルトラセブン」の放映が始まったのが1967年の後半のことなので、このゲーム機が作られたのはおそらくそれよりも早い時期である1966年から1967年前半にかけてのことであろうと推測される。ワタシも「ウルトラガン」を過去に見ているし遊んだ記憶もあるのだが、それがいつ頃だったかを特定できる記憶がない。もしかすると大阪駅前第2ビルは魔界で、ここにかかわる記憶は混乱させられる宿命にあるのかもしれない。

「ウルトラガン」のメーカーは「関西精機」、製造時期は1960年代半ばまで判明。(2021年1月21日追加)

◆【ホームランゲーム】
これもメーカーと製造年が特定できていないが、ウルトラガンの並びにあった「ホームランゲーム」は、ワタシにとっては「ウルトラガン」に匹敵するほど懐かしいゲーム機だ。

「ホームランゲーム」のメーカーは「日本展望娯楽機」であることが判明。販売時期は1969年以前。(2021年1月21日追加)


「ホームランゲーム」の筐体。野球をテーマとしたパチンコタイプのゲーム機。


(1)「ホームランゲーム」のビルボード部分。 (2)盤面と、ランプでランナーの位置を表示するダイヤモンド。 (3)後から作られた、手作り感満点のメダル払い出し口。

現在、東横線学芸大学駅西口の目の前にある不動産屋はかつて玩具店だった。1970年前後頃、その玩具店の店頭にこの「ホームランゲーム」が設置されており、ワタシはそこでしばしば遊んだものだった。当時のゲーム料金は1回10円で、全部で10球を打ち出し、7点以上を獲得すると1回だけリプレイができた。「ZERO」では、1ゲームの料金は100円で、7点以上獲得のリワードは、リプレイではなく、メダルが払い出される仕様に改造されていた。もともとメダルの払い出しなど想定していない筐体なので、後から筐体の下端に穴をあけてメダルの払い出し口としていた。

◆【アレンジボール】
アレンジボール(さとみ(現サミー)、1970年代中ころ)もあった(関連記事:【シリーズ絶滅種】アレンジボールを記憶に留めておこう)。アレンジボールは、もともとは風俗第7号営業(要はパチンコ店のこと。今は第4号営業に変わっている)向けに開発されたゲーム機だが、ゲームセンターやシングルロケ用に転用されるケースも多かった。この機械もそういうもののひとつだったようで、筐体にはセガの銘板が付いている。


アレンジボールの筐体。スタンド部分のデザインは後付けで施されたものと思われる。コイン投入口はさらにその後に後付けされたものと思われる。
 

コイン投入口が新たに設置されたため塞がれた本来のコイン投入口。「SEGA INC」の銘板が貼られている。

ゲーム機業界のトップ同士は、70年代か、ひょっとすると60年代までさかのぼって、その関係に良し悪しいずれもあるにせよ、何らかのつながりがあるケースが非常に多い。現在、セガはサミーに吸収されて同じグループになっているが、この2社はアレンジボールの時代に既に付き合いがあったことが窺われる。

◆【バッティングゲーム】
ワタシが小学生のころ、商業施設の屋上などで何度か遊んだことがある「バッティングゲーム日本自動販売機、発売時期不明=2021年1月21日追加)」もあった。硬貨を投入すると、上部のレールからスーパーボールが数秒おきに転がり落ちて来るので、これをノブを回してフィギュアで打ち返し、緑色のフェンスの向こうに入れればホームランとして1点が加算される。ゲームは1分間の時間制で、全部でだいたい15球前後のボールが出てくる。


(1)「バッティングゲーム」の筐体。ビルボードというものは無い。 (2)筐体を斜め方向から見たところ。前面に突き出るノブを回すと、バッターのフィギュアが回転する。 (3)ボールが出てくるレール。 (4)バッターフィギュアを回したところ。客待ち中でも特にロックがかけられるわけでもなく、回すだけならいくらでも回せる。 

レールから落下するボールをバットでとらえるのは案外難しく、ワタシはこのゲームで1点たりとも取れたためしがない。それどころか、そもそもバットをボールに当てることすら満足にできなかった。そうすると「こんなはずではない」という思うものだから、機会があれば再チャレンジするのだが、やっぱり空振りばかりして終わるのが常だったので、その悔しさは怨念となって今も残っていた。

そのような因縁深いオールドゲームに今この時代に出会えるとは全く奇跡的なことであるので、ここで会ったが百年目盲亀の浮木優曇華の花といきり立って遊んだところ、なんと2点も取ることができた。それ以外にも、ジャストミートしすぎて打ったボールが跳ねて手前に戻ってしまい、得点にならなかったこともあった。これにより、50年近く現世を彷徨っていた我が怨霊はようやく成仏することができた。もしかすると、今回の旅はこのために神が仕向けたのではないかと思えてきた。

これらの他にも、前述「ホームランゲーム」とよく似た「バッティング(前述のバッティングゲームとは別物・メーカー不明)」というゲームや「国盗り合戦(1980, レジャック/コナミ)」、「タッチアクション(こまや, 製造年不明)」、「ジャンピングラリー(こまや, 製造年不明)」などの写真をいろいろな角度から撮影したりお布施のつもりで遊ぶなどして過ごしていたら、案外長い時間が経ってしまった。

【その他】
「ZERO」の店頭に据え付けてある飲料の自販機は、赤まむしドリンクや缶コーヒーが50円、三ツ矢サイダーやバヤリースでも60円と格安だった。うらやましい。


「ZERO」店頭の飲料自販機。ウチの近くや職場にもこんなものがあってほしいものだ。

また、UFOキャッチャーには芸術家、岡本太郎のアートのミニチュアが景品として入っていた。ワタシは太陽の塔が欲しくて何度もチャレンジしてみたが、結局獲ることはできなかった。


ZEROにあった、岡本太郎コレクションのUFOキャッチャー。掴むのはまず無理だから、何度か転がして獲ることになると思うのだが、カプセルはうまい具合に転がってくれない。かなりの額をお布施してしまった。

大阪駅前第二ビルの地下1階には、「ZERO」の他に「2B1」というゲーセンがあると聞いていたのでこちらも覗いてみたが、「ZERO」ほど興味をそそられる機械は無かった。どおりで昨夜の話の中でも推す声が出なかったはずだ。それでもまだ新大阪に向かうまでにはいくらか時間はあったので、一応お布施のつもりで「上海III」に100円硬貨を投入した。

アーケードの「上海」には多くのバージョンが存在するが、サン電子の「上海III」はその中で最も出来が良いとワタシは思っている。しかしここの機械は持ち時間の設定が辛くなっているようで、1回目はタイムオーバーとなってしまった。悔しいので連コしたら、今度は1面で手詰まりとなってしまい、悔しさは倍増した。こんなことを何度か繰り返して、必要以上にお布施を出してしまった。しかも最後となったゲームは絶好調でなかなか終わらず、そろそろ新大阪に向かわなければならない時刻が迫ってきたのでやむなくいい加減なゲームをして半ば無理やり終わらせなければならなかった。

新大阪に到着したのは5時40分頃。今や大阪土産の定番となっているらしい「蓬莱551」の豚まんを買おうと店を探したところ、フードコートのようなところでめまいがしそうなほどの長蛇の列ができている。そう言えば新大阪駅構内には他にも売店があると聞いていたので、案内板などを頼りに探したら、新幹線の乗り口に近いところにチルド専門店というものがあった。こちらも結構な行列ができてはいたが、さっきほど絶望的な感じはしない。結局10分ほど並んで無事買うことができた。

後は新幹線に乗って東京へ。切符は東京駅からの往復で買ってはいたが、品川で途中下車して、山手線に乗り換えて目黒まで行き、そこからバスで自宅に到着したのが11時前ころ。明日からはまた普通の一週間が始まってしまうと思うと気が重いけれども、今回の旅は、たくさんのオールドゲームに触れただけでなく、多くの方々とご縁ができたのも大変有意義なことだった。

現地でお会いした皆さん、その節はたいへんお世話になりました。どうぞ今後ともよろしくお願いいたします。大阪へはいずれまた機会を作って訪れたいと思います。また、皆さんも東京にいらっしゃることがありましたらぜひお声をおかけください。どうもありがとうございました。

(大阪レゲエ紀行シリーズ おわり)

大阪レゲエ紀行(6) DAY 2・その1:tさんとGマシンなどの話で盛り上がるの巻

2019年04月13日 16時14分39秒 | ロケーション
【DAY2の予定】
・12時にホテルをチェックアウト。
・午後、拙ブログをご高覧くださっているtさんとお会いする。
・大阪駅前第2ビルのゲーセン「ZERO」を見る。
・新大阪駅で蓬莱551の豚まんを買って東京に戻る。


【ハートンホテル心斎橋~シルバーボールプラネット】
10時半にセットしておいたアラームで目覚めた。それよりも早く自然に目が覚めるだろうと思っていたのだが、やはり相当の寝不足だったらしい。昨夜は帰るなりあっさり寝てしまったので、シャワーを使い、12時ちょうどにホテルをチェックアウトしてシルバーボールプラネットへ向かう。弱い雨が降っていたが、すぐ近くでもあるので傘は買わなかった。

今日はこれから、かねてより拙ブログをご高覧くださり、しばしばコメントもいただくtさんという方とお会いすることになっている。tさんは大阪を地元とする、古いゲームがお好きな方だ。予定時刻の12時半にはまだ少し時間があったので、昨日写真を撮り損ねていた機種の写真を撮り(それでもまだ撮り逃しがあったことにあとで気づく)、「Rolling Stones (Bally, 1980)」を遊んだりしているうちにtさんからケータイに電話が入り、無事に落ち合うことができた。


tさんが到着していた時に遊んでいた「Rolling Stones (Bally, 1980)」。この機種の存在はリアルタイムで知ってはいたが、当時はローリング・ストーンズというロックバンドに興味が無かったので眼中に入らず、今日まで一度たりとも遊んだことがなかった。今見ると、80年代半ば以前の機種の特徴である、ランプレーンやマルチレベルなどでゴテゴテしていないところが好もしい。

少し遅めだが昼時でもあったので、tさんと近くのファミレスに入って、軽く食事をとりながらいろいろとお話を伺った。tomさんはIT技術系のお仕事をしており、電子工作系の趣味もされているとのことで、ゲームの技術的な方面にも明るい方だったが、それ以上に、1970年代の日本のアングラ市場で稼働していたGマシンについても詳しいことに驚かされた。

「ウィンターブック(WINTER BOOK)」という、米国H. C. Evans & Co. 社製の競馬をテーマとする電光ルーレット機(関連記事:初期の国産メダルゲーム機(4) 競馬ゲームその2・1975年の競馬ゲーム)が日本のアングラ市場に出回っていたのは1960年代のことらしい。ワタシも1970年前後に長野県のリゾート地のレストランでこれを見ている(関連記事:セガのスロットマシンに関する思いつき話)。


sigmaの創業者である故真鍋勝紀氏がコレクションしていた米国H. C. Evans & Co. 社製のギャンブル機「ウィンターブック」のバージョン違い「BANG TAILS」。真鍋氏はこれを「最高傑作」とべた褒めしており、開業間もないころの「ゲームファンタジア」に何台も設置していた。この写真の個体はそのうちの1台と思われる。

「ウィンターブック」は1940年代から50年代にかけて製造されていたが、日本国内では1970年代に入ってもその類似機種が多く作られており、それらは一般に「ダービー」などと呼ばれて、警察白書にも押収した賭博機としてその名が出てくる(関連記事:「ロタミント」の記憶)。例えばユニバーサルは1975年に「ニューウィンターブック」というリメイク版を発売している(関連記事:初期の国産メダルゲーム機(6) ユニバーサル その2a)し、また、小型化したり、単勝式しかなかった本家を連複式に翻案した機種が、70年代の特に半ばくらいまでに、かなりの数がつくられている。それらは通常のゲームセンターに設置されるケースもたしかにあったが、それ以上に飲食店ロケなどでの違法な賭博営業で稼働していたようだ。



ユニバーサルがリメイクした「ニューウィンターブック(1975)」の広告と盤面の拡大図。「知る人ぞ知る価値」のコピーが何を意味するかは見る者の想像に任されている。


一般に「ダービー」と呼ばれた電光ルーレット機は山ほどあるが、きりがないので一つだけ、業界誌「アミューズメント産業」74年9月号に掲載された「大阪マシン」社の広告。「ハスラー」は、1970年代前半に流行ったドイツ製ギャンブル機「ロタミント」を意識した作りと思われ、ネットオークションではこの種の「ダービー」機が「ロタミント」と称して出品されているところを見かけることがある。


アミューズメント産業1974年9月号に掲載された「ダービー」の類の広告。このような電光ルーレット機のメーカーはいくつもあるが、「関西企業」、「高砂電器」、「大阪パブコ」、「KKバリー」、「Wipe(旧・本木)」など、大阪や兵庫といった関西圏に拠点を置いているケースが非常に多い。また、それらの中にはのちにパチスロメーカーに進展していったところもある。

などと知ったようなことを語るワタシは、実はこの時代のGマシンについてそれほど多くを知っているわけではない。また、「ダービー」は、ほとんどのオールドゲームファンの興味の対象からは外れているジャンルのようで、このテーマで話ができる人と出会った経験はこれまでなかった(と言うか、そもそも話題に上らない)のだが、tさんは良くご存知だった。もしかしたら、この種のゲーム機が関西に多かったということなのかもしれないが、何にしろ、この分野でのお話をいろいろと伺えたのは大変にうれしいことだった。

楽しい話は尽きなかったが、これから大阪駅前第2ビルのゲーセン「ZERO」に行かなければならず、そして6時には新大阪駅に着いておきたかったので、3時ころにファミレスを出た。tさんは、「土地勘のない人には少し行きにくいかも」と言って、わざわざ大阪駅まで同行して案内してくださった。この地下街は「日本最大級の地下迷宮」とまで言われているらしく、確かに一人だったら迷いそうな道筋だった。時間も限られている中、さして迷うこともなくZEROに無事にたどり着くことができたのは、tさんのご親切のおかげだ。tさん、その節はどうもありがとうございました。もしこちらにいらっしゃることがあればぜひお知らせください。大阪ほどオールドゲームのポイントは多くありませんが、いくらかご案内させていただきます。

(次回大阪レゲエ紀行(7) DAY 2・その2(最終回)につづく)

大阪レゲエ紀行(5) DAY 1・午後その4:大阪某所にて69年製エレメカと出会うの巻

2019年04月07日 16時03分59秒 | ロケーション
【午後その4の予定】
・夜、KZさんとオールドゲームコレクターであるKTさんのオフィス(梅田近くの某所)を訪問する。
以上。

【KTさんのオフィス】
KZさん及びKINACOでご一緒していた数人の皆さんと一緒に恵美須町から電車に乗り、梅田近くにあるKTさんのオフィスに向かう。

KTさんは以前より拙ブログをご高覧下さっているオールドゲームのコレクターで、これまでに数回お会いしているが、KZさんとはさらに古くからお付き合いがあるようだ。今回はそのKZさんの手引きでオフィス訪問が実現した。KZさんはどこまで顔が広いのだろう。

KTさんはワタシなどよりもずいぶんお若そうに見えるが、オールドゲームについてはビデオ、メダル、エレメカとジャンルを問わずたいへん造詣が深いばかりでなく、電子・電気技術にも明るく、基板上のイカれたチップを突き止めて修理までしてしまうどえらい方だ。

オフィスの壁沿いには、アップライトのゲーム筐体がたくさん並べられている。また、部屋の中央にはカクテル筐体(ATARIのウォー・ロードの筐体に見えた)があったり、またドライブゲームのコックピット筐体もあった。そのコックピット筐体の陰からひょっこりと、かねてからご厚誼いただいている東京在住のKWさんが現れたのはサプライズだった。たまたま何かのイベントで大阪に来ていたとのことだった。

どれもこれも写真に残しておきたい機械ばかりだったが、なにしろここはオフィスの中、うっかり機密漏洩に繋がることの無いよう撮影は極力自粛したので、置かれていた機種の全部までは覚えていない。せめてメモだけでもしておけばよかった。

しかし、ここにあるゲーム機の中では最も古いエレメカ機「MISSILE (SEGA, 1969)」だけはどうしても写真に残しておきたかったので、周囲のものが写らないよう注意しながら撮影させてもらった。


MISSILE」の筐体(部分)。部屋の照明が落としてあったので電飾がひときわ映えていたが、写真に撮ると暗くなってしまった。画質が悪いのは無理矢理明るくレタッチしたため。レーダーを模した緑色の部分と中段右端の大きな赤いランプは単なる装飾で、ゲームには関係しない。

「MISSILE」は、背景のスクリーンに投影される戦闘機をミサイルで撃ち落とすゲームで、ワタシはこの機械を、小学校高学年の1970年頃に、渋谷文化会館の屋上(関連記事:商業施設の屋上の記憶1:渋谷)で見ている。ハーフミラーに映し出される発光するミサイルはたいへんに幻想的で美しく、思う存分遊びたいと思ったものだが、僅かな小遣いではそう何度も遊べるものではなく、悔しい思いを残していた機種だ。今回は当時の仇を討つつもりで遊ばせてもらった。機械の状態は非常によく、とても60年代の機械とは思えない。


プレイフィールド。ミサイル、タイマー、スコアはハーフミラーに映った虚像だが、仕掛がわからなかったころはたいへん不思議で幻想的に見えた。

二つのボタンでミサイルの発射方向を調整して、ジョイスティック上のボタンを押すとミサイルが発射される。発射後のミサイルは、ジョイスティックを左右に倒すことで弾道を操作することができる。ある資料によれば、この「MISSILE」は、ボタンスイッチを備えたジョイスティックを装備した初めてのコインマシンとのことだ。

この他、集まっている皆さんと「ドンキーコング(任天堂、1981)」や「侍(セガ、1980)」を遊んだり、またオールドゲームの話題に花を咲かせたりなどして過ごすうちに、睡魔が襲ってくるようになった。時刻は10時を回ったくらいではあったが、後ろ髪を引かれる思いで「ムネン、アトヲタノム」と言い残して先に失礼させていただくことにした。KTさん、KZさん、お世話になりました。他の皆さん、おかげさまで楽しいお話が出来ました。後片付けの手伝いもせずにすみません。機会がありましたらまたお会いできればうれしいです。どうもありがとうございました。

(DAY2・その1につづく)

大阪レゲエ紀行(4) DAY 1・午後その3:ポパイ(西成)とTHE DERBY Mk-Vなど

2019年03月30日 12時01分50秒 | ロケーション
【午後その3の予定】
・KZさんと西成区のゲームセンターにsigmaの「THE DERBY Mk-V」を見に行く。
・夜、オールドゲームコレクターであるNさんのオフィスを訪問する。
以上。

【西成:TVタウンゲームセンターポパイ】
KINACOで遊んでいるうちに、KZさんに「sigmaのTHE DERBY Mk-Vを見に行きましょう」と誘われる。ちょうど、ooruiさんという方から拙ブログにいただいたコメントでも同じようにおススメされていたこともあったので、渡りに船とお誘いを受ける。

KZさんとともに路面電車に乗って一駅の「今池」と言う駅で降りたのが17時半過ぎ。シャッター商店街のようにも見えるアーケード街は、「カラオケ居酒屋」を謳う、かつて何かの店舗だったものを最低限の改装で仕立て上げたと思われる飲み屋が軒を並べており、それぞれにいくらかの客も入っている。KZさんによれば、これらのカラオケ居酒屋は、この地域では比較的贅沢な部類の遊びに入るそうだ。

アーケード街を少し歩くと、右手に目当てとするゲームセンター「TVタウン ポパイ」があった。KZさんに、「この界隈で写真を撮るときは注意してね」と釘を刺された。西成区と言えば、いわゆる「ドヤ街」があり、近辺にはワケアリで隠遁生活を望む者も少なくない地域であるとはなんとなく承知していたので、通行人が入らないよう慎重&急いで店の入り口を撮影する。


「TVタウン POPEYE」の入り口。「ATTENTION Here Is not a CASINO!」と、英語の貼り紙がある。西成には安い簡易宿泊施設が多いため、最近は外国人のバックパッカーに人気という話は聞いていたが、あながち誇張でもないらしいことが窺える。

ポパイに入る前に、KZさんがこの先にももう一軒ゲームセンターがあるというのでそこまで行き、店頭の写真を撮影したが、中には入らなかった。


この地区のもう一軒のゲームセンター「SHIN-EI GAME CENTER」の入り口。中国の飲食店でよく見かける、透明の厚いビニールシート製の入り口には「営業時間 6:00~20:30」との貼り紙がある。これがこの界隈の標準的な生活時間帯ということなのだろうか。

再びポパイの前に戻り、店内に入ると、すぐ左手にsigmaの「Mk-V」があった。KZさんは一般のゲームセンターでこの機種を見たことがないと言う。ワタシは、池袋の「ゲームファンタジア・サンシャイン(現・アドアーズ・サンシャイン)で見たことがある。ひょっとしたら渋谷か新宿でも見ていたかもしれないが、そちらは自信がない。この機種はその程度にしか普及しなかった。ここでもKZさんに、「写真の撮影には注意してね。店員のマークもきつい」という注意を受けたので、本体の撮影は遠慮しておいた。


sigmaが頒布したフライヤーより、「THE DERBY Mk-V」の全体像。この画像では見えづらいが、プレイフィールドに対してレーストラックが斜めに配置されているという特徴がある。その本意は不明だが、前作(Mk-IV)ではフィニッシュラインが見づらくなるサテライトがあったので、それを避ける意図があったのかと想像している。

タダの冷やかしと思われるのもまずいかと考え、少しゲームをしようとメダル貸機の前に立ったところ、料金が100円で50枚とあり、驚く。東京でもメダル単価が2円と言うケースはあるが、それもいっぺんに1万円ほど借りた場合の話だ。また、そんなディスカントをする店には湯水のごとくメダルを投入する必要がある大型プッシャー機がたくさん設置されているものだが、この店にそんな機械はない。メダルを貸し出す際の事実上の最低デノミである100円でこの単価を実施している例は他に知らない。

100円を投入してメダル50枚を借り、「MARK V」の席に着いてメダルを投入したら、なぜか49枚しかなかったが、別に構わないとする。「MARK V」は、四角形の筐体の四辺すべてにサテライトが設置されているが、そのうちの一辺は壁に付けられており、その辺の二つのサテライトは殺されていた。なんとか目立たぬようにサテライトの画像のみをやっと撮影する。まるで撮影禁止のカジノにいるようだ。


MARK Vのサテライト。

KZさんといろいろとお話をしながらゲームをやっているうちに18時になった。そろそろ、KZさんとワタシの共通の知人の、オールドゲームのコレクターのところに行くことになっている時間だ。

(「DAY 1・午後その4:梅田付近某所」 につづく)