(本記事は、2020年5月22日一部修正しました)
多忙のため更新が遅れております。今週末から今年最後(のはず)のラスベガス巡礼が控えており、今、更新しておかないとまた少し先になってしまいそうなので、なんとか頑張って更新します。
1971年12月18日、メダルゲームというジャンルを確立したsigma社により、新宿歌舞伎町の東急ミラノビルに、日本初の本格的なメダルゲーム場「ゲームファンタジア・ミラノ(以下、GFミラノ)」がオープンしました。
業界誌「アミューズメント産業」72年3月号の特集記事によれば、「地に真赤なジュウタンを敷いたミラノは、まるでお城にでも行ったかのような錯覚さえおぼえる」このロケの設備投資には1億円がかけられたとのことです。当時の1億円と言えば、現在の2.2億円くらい(大卒初任給の当時と現在の比較による推計)になります。ゲーム場が大型化し運営に大資本が関わることが当たり前の昨今ではたいした事もないように聞こえますが、この当時では破格の事であったことは想像に難くありません。
GFミラノは、運営会社であるsigma社がアルゼに吸収され、社名も「アドアーズ」に変更されたころから、「日本初!! メダルゲーム発祥の店」と謳うようになっていました。<修正ここから>実際は、sigma社は1968年から葛飾区新小岩のボウリング場で実験運営を始め、その翌年に渋谷と、さらに翌年に大田区池上のボウリング場でも実験を展開しています(関連記事:「メダルゲーム」の曙を見た記憶、「メダルゲーム」という業態の発生から確立までの経緯をまとめてみた)が、GFミラノは既存の施設の付帯施設として行ってきた実験運営を離れ、単独店舗として本格運営に入ったという点で<修正ここまで>実質的にはあながちウソと言うわけでもないとは思います。

GFミラノの店頭に掲げられていた「メダルゲーム発祥の店」の看板。でも、この謳い文句に何かを感じるのはワタシのようなヘンなマニアだけで、「そうか、ではここでメダルゲームでもやってみるか」と思った人はいなかったと思う。
残念ながら、GFミラノ(最終的にはアドアーズミラノ)は、2014年12月23日を最後に、43年と6日の歴史に幕を閉じてしまいました。わずかなりとも救いに感じるのは、ゲームセンターがバタバタと閉店し、アーケードゲーム業界の市場規模縮小が言われて久しい中、GFミラノの閉店の理由が、東急ミラノビルの閉鎖に伴うものとされているところです。
70年代中ころから80年代には、ここの2F(3Fだったか?)にもピンボールビンゴ専門店「BINGO-IN」がありました。そしてまた、sigmaの旗艦店ということもあって、ワタシは、おそらく1978年ころから閉店まで、しばしばこの店舗で遊んでいたのですが、不思議なことに昔のことはあまり覚えていません。印象に残っていることと言えば、78~79年ころ、スギウラという高校時代の友人(関連記事:新宿・ゲームファンタジア・リトルサーカス&ビンゴイン・サブナードの記憶)がここで短期間バイトをしていたこと、フォーチュンコイン社製と思しきビデオスロット(関連記事:ワタクシ的ビデオポーカーの変遷(3) 米国内の動き)や、BINGO-INで「Bally Computer "21"」(関連記事:ワタクシ的「ビデオポーカー」の変遷(2)それ以前のビデオポーカー)、そしてなぜか写真ですら残っていない「ザ・ダービー・マークII」を遊んだことくらいのものです。
以下の画像は、GFミラノの店内に掲げられていた、初期のGFミラノの店内を示すパネルを、閉店前日に訪れて撮影しておいたものです。

GFミラノの入口。この画像が開店当時のものかどうかは不明だが、「ルーレットパーティ」の看板とアーチ状のエントランスには覚えがある。

sigmaとメダルゲームの歩みをブリーフィングしたパネル。

店内の様子その1。人っ子一人いないところを見ると、開業直前の様子だろうか。左の壁沿いにセガのダルマ筐体のスロットマシン(関連記事:セガのスロットマシンに関する思いつき話)が並んでいるのが見える。これがオリンピアかどうかは、この写真では判別できない。

店内の様子その2。左側に見えるバーリーの「5-Line Pay(1970)」は、当時としてはほぼニューマシンと言っても差し支えないものだったはず。

このゲーム機は、セガが1975年に発売した「Group Bingo」。ということは、この写真は開店直後に撮影されたものではない。なお、Group Bingoは、セガが1989年に発売した「Bingo Circus」の元ネタである。

上段右の「GOLDEN BALL」は、英国ストリーツ社製のペイアウトゲーム(製造年不明)。sigmaが1980年代終わりころにリメイクしているが、ヒットはしなかった。下段はピンボールビンゴに興じる人たち。

THE DERBY Vφ(関連記事:NASAが発明したゲーム機「ウィナーズ・サークル」)に興じる人たち。これも稼働は1975年からなので、開店当初に撮影されたものではないことがわかる。
これらの写真を見ていると、ワタシが最も馬鹿だった頃を過ごした場所としてむやみに懐かしくなります。他にもいろいろな写真がきっとあったことと思われますが、今でもどこかに保管されているのなら、なんとかウェブ上で良いので公開してほしいものです。
多忙のため更新が遅れております。今週末から今年最後(のはず)のラスベガス巡礼が控えており、今、更新しておかないとまた少し先になってしまいそうなので、なんとか頑張って更新します。
1971年12月18日、メダルゲームというジャンルを確立したsigma社により、新宿歌舞伎町の東急ミラノビルに、日本初の本格的なメダルゲーム場「ゲームファンタジア・ミラノ(以下、GFミラノ)」がオープンしました。
業界誌「アミューズメント産業」72年3月号の特集記事によれば、「地に真赤なジュウタンを敷いたミラノは、まるでお城にでも行ったかのような錯覚さえおぼえる」このロケの設備投資には1億円がかけられたとのことです。当時の1億円と言えば、現在の2.2億円くらい(大卒初任給の当時と現在の比較による推計)になります。ゲーム場が大型化し運営に大資本が関わることが当たり前の昨今ではたいした事もないように聞こえますが、この当時では破格の事であったことは想像に難くありません。
GFミラノは、運営会社であるsigma社がアルゼに吸収され、社名も「アドアーズ」に変更されたころから、「日本初!! メダルゲーム発祥の店」と謳うようになっていました。<修正ここから>実際は、sigma社は1968年から葛飾区新小岩のボウリング場で実験運営を始め、その翌年に渋谷と、さらに翌年に大田区池上のボウリング場でも実験を展開しています(関連記事:「メダルゲーム」の曙を見た記憶、「メダルゲーム」という業態の発生から確立までの経緯をまとめてみた)が、GFミラノは既存の施設の付帯施設として行ってきた実験運営を離れ、単独店舗として本格運営に入ったという点で<修正ここまで>実質的にはあながちウソと言うわけでもないとは思います。

GFミラノの店頭に掲げられていた「メダルゲーム発祥の店」の看板。でも、この謳い文句に何かを感じるのはワタシのようなヘンなマニアだけで、「そうか、ではここでメダルゲームでもやってみるか」と思った人はいなかったと思う。
残念ながら、GFミラノ(最終的にはアドアーズミラノ)は、2014年12月23日を最後に、43年と6日の歴史に幕を閉じてしまいました。わずかなりとも救いに感じるのは、ゲームセンターがバタバタと閉店し、アーケードゲーム業界の市場規模縮小が言われて久しい中、GFミラノの閉店の理由が、東急ミラノビルの閉鎖に伴うものとされているところです。
70年代中ころから80年代には、ここの2F(3Fだったか?)にもピンボールビンゴ専門店「BINGO-IN」がありました。そしてまた、sigmaの旗艦店ということもあって、ワタシは、おそらく1978年ころから閉店まで、しばしばこの店舗で遊んでいたのですが、不思議なことに昔のことはあまり覚えていません。印象に残っていることと言えば、78~79年ころ、スギウラという高校時代の友人(関連記事:新宿・ゲームファンタジア・リトルサーカス&ビンゴイン・サブナードの記憶)がここで短期間バイトをしていたこと、フォーチュンコイン社製と思しきビデオスロット(関連記事:ワタクシ的ビデオポーカーの変遷(3) 米国内の動き)や、BINGO-INで「Bally Computer "21"」(関連記事:ワタクシ的「ビデオポーカー」の変遷(2)それ以前のビデオポーカー)、そしてなぜか写真ですら残っていない「ザ・ダービー・マークII」を遊んだことくらいのものです。
以下の画像は、GFミラノの店内に掲げられていた、初期のGFミラノの店内を示すパネルを、閉店前日に訪れて撮影しておいたものです。

GFミラノの入口。この画像が開店当時のものかどうかは不明だが、「ルーレットパーティ」の看板とアーチ状のエントランスには覚えがある。

sigmaとメダルゲームの歩みをブリーフィングしたパネル。

店内の様子その1。人っ子一人いないところを見ると、開業直前の様子だろうか。左の壁沿いにセガのダルマ筐体のスロットマシン(関連記事:セガのスロットマシンに関する思いつき話)が並んでいるのが見える。これがオリンピアかどうかは、この写真では判別できない。

店内の様子その2。左側に見えるバーリーの「5-Line Pay(1970)」は、当時としてはほぼニューマシンと言っても差し支えないものだったはず。

このゲーム機は、セガが1975年に発売した「Group Bingo」。ということは、この写真は開店直後に撮影されたものではない。なお、Group Bingoは、セガが1989年に発売した「Bingo Circus」の元ネタである。

上段右の「GOLDEN BALL」は、英国ストリーツ社製のペイアウトゲーム(製造年不明)。sigmaが1980年代終わりころにリメイクしているが、ヒットはしなかった。下段はピンボールビンゴに興じる人たち。

THE DERBY Vφ(関連記事:NASAが発明したゲーム機「ウィナーズ・サークル」)に興じる人たち。これも稼働は1975年からなので、開店当初に撮影されたものではないことがわかる。
これらの写真を見ていると、ワタシが最も馬鹿だった頃を過ごした場所としてむやみに懐かしくなります。他にもいろいろな写真がきっとあったことと思われますが、今でもどこかに保管されているのなら、なんとかウェブ上で良いので公開してほしいものです。
私が初めてこの店舗に訪れたのはやはり1978年だったと記憶してます。
大学生の頃で、同級生に連れられて入りましたが、当時はGFで散財するほど財力がなかったので、同級生がかろうじて300円でメダル10枚を替えてBerryのスロットマシーンを回しているのを隣で眺めていた程度でした。
就職後、その店舗に再び訪れたのは1980年前後だったと思います。その時は一人で行き、本格的にハマったのは1981年ごろからだと思います。
当時のGFミラノ店の競馬ゲームの機種番号はよく覚えてませんが、誰か一人でもベットし終わるまでレースが始まらないようになっていて、白い?ボタンがあってそれを押すとベット完了だった。初心者の内は分からなかったので、周りの常連さんから、「ボタンを押して」と注意されて覚えましたね!
当時は私ももっともバカな頃でしたよ。
「The Derby Markφ」には「スタートボタン」が付いていましたね。参加しているサテライトの全席でこれが押されると、所定の投票時間内でも投票締め切りとなってレースがスタートました。ワタシは良いアイディアだと思ったのですが、このシステムを継承するゲームがその後現れなかったところを見ると、問題もあったのでしょう。
道草亭ペンペン草さんは、ワタシとほぼ同じ世代の方と拝察いたします。70年代のゲームの記憶を共有できる方がいらっしゃるのはたいへん嬉しいことです。これからも、印象に残るゲームやロケーションのお話をお聞かせください。
GFミラノですがB1Fがギターラ
1FがGFミラノ 2FがBINミラノ
構成で、後期になり3FにMLミラノができました
となりのビル(建物はつながっているのですが)ミラノボウルの3Fにはフリッパールームというフロア。
ボウリング場にも設置するというゴージャスな展開が行われていました
1978年-79年はゴールデンナゲットというブロック崩しを大量に並べ始め GFミラノの事務所のある前にはPOPだらけだった時期ですね
当時社長は フロアに来ては金色 赤 黒の組み合わせお気に入りだったようで、椅子を赤くしろだの 背もたれを黒にしろとかいっていたのを思い出しまします
写真にあるメダル貸出機は
中身がロータリーリレーと
アサヒさんのホッパーが入っているのもので 300円で10枚貸出
のものなので、技術2課が成城工場の時期なので、
1978年以降の写真のはずですよ
GFミラノがクローズしてから丸6年が経ってしまいました。「ギターラ」は入ったことはありませんが、その店名はよく覚えています。
GFがミラノボウル側に延伸していた時期があったことに記憶はあるのですが、具体的な造りといつ頃のことだったかが思い出せません。店内をふらふら歩いていたらいつの間にか見慣れたGFに出て来ていたなんてこともありました。
グループビンゴが写っている画像は1978年以降でしたか。グループビンゴは木製のプレイフィールドに耐久性の問題があったらしく、いつごろからかパッタリと見なくなりましたが、少なくともその頃まではあったということですね。こういう情報は本当にありがたいです。
年代的には たぶんですよ。
もう本人も老人なので、あっている保障はありません。W
そのメダル貸出機の右となりにあるのが、グローリーの両替機がありますが、
これも同じ時期ですし、写真の奥にある
ペニーフォールのオリジナルが稼働してます。
これも1980年代にはいると、sigmaがコピーしたニューペニーフォールと入れ替わります オリジナル筐体は 絵ガラスだけ残して廃棄しました
同じくメダル貸出機の写真の後ろに
マジックリングが一部だけ見えます
マジックリングは同じ時期にロケから引き揚げていた可能性があります
メダルゲームで賑わった店内の写真に
写る 椅子ですが、
ビニール張りのやつですが、これは
以降のB-IN GF 展開から
クッション性の高い赤い椅子へと変わり合わせて黒いスタンド灰皿
テーブル灰皿へと変わります
駄文投稿申し訳ない・・
ゴールデンボールやオートルーレットなど英国製の機械が見られますが、それらが稼働していた時期の見当が付けられるので、「たぶん」でも十分ありがたいです。
メダル料金が10枚300円になったのが78年以降と言うのも、ワタシの記憶があいまいになっていたところだったのでありがたかったです。
コロナで大変な時期ですが、どうぞお気をつけてお過ごしください。そして、これからも貴重なお話をお願いいたします。
私 大学生の時に 2年程バイトをしておりましたので 良く覚えております。
入口数段の階段を上がり左側に 貸出カウンター 右側に今では懐かしい ジュークボックス 道路側にはスロットマシン 右には ビンゴ・ピンボールがありました。
本社が 成城にあり 近場に三船プロのセット 並びに事務所があったのを 思い出します。
そうそう シグマの店舗ですが 当時は中野駅南口 現在のファミリーロードにもあり店内には 2人乗りの ゴンドラが 廻っていましたが 新宿の方が忙しくなった為か 直ぐに閉店しましたので 皆さんの記憶から抜けているようです。
変換ミスがありました。
緑山 ではなく 緑屋です。
それと マナベカツキさん て 失礼ですが当時社長の お名前 マナベさんだと思いますが ご親戚の方ですか ?
緑屋でバイトされていたのですか! ワタシは小学生だった1970年頃にその店舗を見ています。その時には「マジックトッパ―」という5色のシルクハットのどれにボールが隠されているかを当てるゲームも設置されていたように思います。
ただ、ボウリング場はたしか「ミドリボウル」と言っていたと思うのですが、今調べると「東京ホリデーボウル」がヒットして、記憶に自信が無くなっております。
当時のことでご記憶されていることが他にもありましたらぜひお聞かせください。
当時は 109も無く 駅前からも 旧恋文横丁越しに 緑屋 壁には 東京ホリデーボール の看板があり 良く見えました。
私 小学3年から 約7年 現在の大橋ジャンクション近くに居住しており 友達の18違いの兄が とある興業の幹部でもあったのか 現在の渋谷と違い何事もなく子供でも安心して遊べる事が出来ました。
さて 大分話が逸れてしまいましたが バイトを始めた頃の機種はBally Beautyと言う確か固定場面だったのではなかったかも その後 場面が移動出来る機種に変更され Bikini ・ Bonus 7 になり ゲーム説明をするのも簡単に 当時 毎週土曜日は 朝4時まで営業 良く ザ・モップス 鈴木ヒロミツ さんが 来店されて話をさせて頂きまた。
数年後 音響の仕事をしていた頃 スタジオで偶然声をかけて頂いた事を思い出します。
バイトのチームワークも良く売上も上がり 時給も他の職種でバイトをしている学友と比較した処 約2.5倍も多く 学費も一括で納入することが出来 充実させて頂きました。
この頃だと思いますが 今まで 10円玉何枚かで遊べた ゲームが 50円1枚に 値上がりしたと思います。
叉 今は実施してませんが 道玄坂の歩行者天国に加え 73年は 海外でも有名になっているスクランブル交差点 人の流れも変化 して来ました。
当時 ビンゴ ・スロット等は 一段高い絨毯のある場所で別格でしたが タイル床のフロアーには
ピンボール ・バスケットボール ・上部 左右横 ガラス張りの クレーンゲーム・ エアーホッケーなどがあり 特にホッケーは 新筐体の為 順番待ちがありました。
シグマに関しては バイト時代の店長が 入社当時は 「八丈島等に行く客船内にあった ゲーム場に勤務 陸地に上がったら こちらに配属された」 と聞いたことがありますので ボーリング場だけではなく 他の施設でも営業していた様子でした。
時々 社長が来店し 仕事内容や 改良点等について 駅前 フルーツパーラー隣の うなぎ屋にて食事をしながら話をさせて頂いた事も有り 「将来 ディズニーランドみたいな施設を作りたい」 と話されていたのが印象的でした。
その後 中野 新宿に新店舗が開店 ゲームファンタジア ミラノ店 開店当時は アメリカ カジノと同じような ルーレットや カードゲームも 行っていたと記憶していますが いつの間にか消え 今言う 機械的なメダルゲームになってしまいました。
当時の店内様子は 石原軍団のテレビドラマでは 良く撮影場所として使われていましたので 古い刑事ドラマを見る機会がありましたら ご覧になってください。
私も 卒論等で忙しくなって来ましたのでバイトを辞める時 人事部長から「卒業したら待ってるよ 」と スカウトされ 「検討します」 と返答 叉 社長からと 約2ヶ月分位のボーナスを支給されたのを 今でも思い出します。
50年も前の記憶で 殆ど忘れおり 又数年前に当時店舗内で 撮影した写真等(店内やバイト仲間) 終活準備で残念ながら・処分してしまいましたので 悔んでおります。
だらだらと 取り留めのない文章で 申し訳ございません 何かご参考になれば幸いです。
昔でしたら 筆を納めさせて頂きますですが これにて 電源落とさせて頂きます。
ありがとうございました。
追伸
前回の記述で 店舗入口の写真を渋谷店と書いてしまいました ミラノ店も渋谷店と同じように作られてましたので 勘違いしました 渋谷店は店舗奥の非常階段出口近辺に出入り口がありました。
申し訳ございません。