行雲流水

仏教をテーマとした記事を掲載しています。

インターネットの注意

2017年07月11日 | 仏の心
荀子の言葉じゃ

問うこと楛(こ)なる者には、告ぐること勿(な)かれ、告ぐること楛なる者には、問うこと勿かれ。說くこと楛なる者には、聽く勿かれ、爭氣有る者は、與(とも)に辯(べん)ずること勿かれ。故に必ず其の道に由りて至り、然る後之に接し、其の道に非ざれば則ち之を避く。故に禮恭(うやうやし)くして、而(しこう)して後與に道の方を言う可く、辭(じ)順にして、而して後與に道の理を言う可く、色從いて、而して後與に道の致を言う可し。故に未だ與に言う可らずして言う、之を傲と謂う。與に言う可くして言わず、之を隱と謂う。顔色(がんしょく)を觀ずして言う、之を瞽(こ)と謂う。故に君子は傲ならず隱ならず瞽ならず、其の身に謹んで順(したが)う。詩に曰く、匪交(あなどら)ず、匪紓(おこたら)ざるは、天子の予(あた)うる所、とは、此を之れ謂うなり。

いい加減な質問をする輩には、答えてやるな。いい加減な応対をする輩には、質問するな。いい加減な説明をする輩の話は、聞いてやるな。けんか腰でねじ伏せてやろうといきり立つ輩とは、議論するな。応対に値するのは、必ず礼の道に則って近づいた者だけであり、そうであってはじめてこの相手と接するのだ。礼の道に則らない無礼者は、避けて通れ。ゆえに礼に沿って恭しい者であって、はじめて正義正道の大筋を論ずるに値する。言葉がおだやかであって、はじめて正義正道のロジックを論ずるに値する。そして雰囲気が温和であって、はじめて正義正道の行き先を論ずるに値するのだ。ゆえに、「まだ語るべき段階でないのに言葉を発するのは、傲(言いすぎ)というものである。だが語るべき段階であるのに言葉を発しないのは、隠(いん。言い足らず)というものである。相手の雰囲気を読まずに自己中心的に言葉を発するのは、瞽というものである」という格言があるのだ

インターネットの書き込みには酷いものがあるのう。

理屈に合わないことを言って相手を罵倒しようとする人は相手にしないことじゃ。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ガチガチな心

2017年07月07日 | 仏の心
作家の遠藤周作の遺した言葉じゃ。

自分の考えだけが何時も正しいと信じている者、

自分の思想や行動が決して間違っていないと信じている者、

そしてそのために周りへの影響や迷惑に気づかぬ者、

そのために他人を不幸にしているのに一向に無頓着な者――それを善魔という


遠藤周作はクリスチャンじゃったが、この言葉は親鸞さんの言葉にも通じるものがあると思うぞ。

自分はまともでいい人じゃあ思うとる人が一番始末に悪いんじゃ。

禅でいやあ「禅天魔」なんじゃ。

自分だけが正しいと思うのを我痴(がち)と言うんじゃ。

心がガチガチなんじゃね。



  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

欲を少なく足るを知る

2017年07月04日 | 仏の心
○よう間違えるのじゃが、「少欲知足」は「小欲知足」ではないぞ。

○小さい欲ではのうて少ない欲なんじゃ。

○人間は生きておる限りは欲はのうならんぞ。

○欲をできるだけ少なくしよう言うんじゃ。

○欲は決してゼロにはならんが、減らすことはできるんじゃ。

○少欲知足は資本主義社会には逆行する考え方なんじゃがの。

○資本主義ちゅうもんは、みんなの欲を膨らますことによって成り立っとるんじゃけ。

○お釈迦様の教えは資本主義とは相容れんもんなんじゃよ。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする