行雲流水

仏教をテーマとした記事を掲載しています。

縦と横

2012年11月13日 | 禅の心
織物には、縦の糸と横の糸が組み合わさっています。縦の糸は、まっすぐ貫いています。横の糸は縦の糸の間をくぐって、形が変化しています。

真理とは、不変のもの。宗教は縦糸です。それに対して、道徳などはその時の社会によって変わっていきます。道徳は横糸です。宗教と道徳は似て非なるものです。宗教は真理を追究していきますが、道徳は変わっていきます。  時代によっては、仇討ちや戦争で人を殺すことが道徳的に良いことになることもあります。しかし、宗教ではいかなる場合も人殺しはいけません。

 経緯といいますが、経は縦、緯は横を表します。「お経」とは、縦の糸のように真理の書物ということです。

世間の価値観から脱す

2012年11月09日 | 禅の心
一切衆生は唯我独尊じゃ、自分が自分を生きるよりほかはないんじゃ。それをどうして見失うたか。
世間の見本が悪いからじゃ。常識といい、社会意識といい、党派根性といい、一切合財みんな見本が悪すぎる。




唯我独尊とは、自分勝手に生きるのでなく、世間一般の価値観に惑わされて生きるのはやめようということです。みんながいいというものが良いわけではなく、良いものかどうかは、自分の頭と感性で決めていかなかればならないのです。多数決で数の多いものがいいわけではなく、行列のできる店が良い店であるとは限りません。



宗教とは何ものにもダマサレヌ真新しの自己に生きることである。



私たちは、世間一般という怪物に翻弄されて生きています。世間の価値観ではなく、仏様の価値観で生きようというのが、仏の道というものなのです。

マスコミの言うことを過信しない。世間の価値観に惑わさせないように、自分の頭で考えることが大事なのです。

「大いなるものにいだかれあることを けさふく風のすずしさに知る」

2012年11月06日 | 禅の心
「大いなるものにいだかれあることを けさふく風のすずしさに知る」



山田無文老師が若かりし頃、河口慧海師していたときに、無文老師が結核を患ってしまいました。そのころ、兄も同じ結核で他界してしまい、自分もそう長くはないと思っていたそうです。無文老師が孤独感にさいなまれているある日、庭に吹いてくる風に吹かれながら、「こんな気持ちの良い風に吹かれるのは何年ぶりだろう。私は一人ではなかったのだ。空気という大いなるものに生かされておるではないか。」としみじみ思って、詠んだのがこのうたなのです。



私たちは生きているのではなく、生かされているのです。私は怪我をしたときに膿が出てくるのを見て思いました。膿は外敵と戦った白血球の死骸です。どんな状況下でも自分を守り生かそうとしてくれるものがある。死の直前まで。私たちは大いなるものに生かされているのです。



攻撃するな

2012年11月02日 | 親鸞・歎異抄・浄土真宗
攻撃的な人というのはいつの時代でもいるものです。もちろん世の中には攻撃的な性格の人も必要だと思います。しかし、いつも攻撃ばかりしていると、人間関係がうまくいくはずもありません。攻撃的は性格の人は、その攻撃性ゆえに、自ら苦しんでしまうところがあります。
澤木興道老師は「打ち方やめー」と言われました。座禅によって、カッとのぼせあがった感情を冷ませというのです。イライラしたり、怒りがおさまらないときには、静かに座って呼吸を整えることが大切です。その時に、下腹に意識を集中させるとなぜか落ち着きます。禅は穏やかに生きる道なのです。