行雲流水

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死ぬのが恐いのは当たり前

2013年09月20日 | 禅の心
余は今まで禅宗のいわゆる悟りということを誤解していた。悟りということはいかなる場合にも平気で死ぬることかと思っていたのは間違いで、悟りということはいかなる場合にも平気で生きていることであった。 正岡子規 明治35年6月2日「病床六尺」より

糸瓜咲て痰のつまりし仏かな

痰一斗糸瓜の水も間にあはず

をとといのへちまの水も取らざりき 正岡子規絶筆 明治35年


禅というのは「今を生きる」の一言に尽きると思います。正岡子規は死を目の前にして死ぬのが恐いし、苦しいのです。誰しも平気で死ねるなどということはありません。正岡子規の絶筆となった3つの句から、正岡子規が苦しみもがきながら死に臨んでいる様子がうかがえます。武士道といえば平気な顔をして死ぬことだと思われがちですが、そうではないのです。精一杯自分の人生を生きていくことなのです。
柴山全慶老師は
死ぬときまで結構な死に方を求めるような色気を出してはいけない。苦しんで死ぬのもまた風情だ。
と言われています。死ぬのが恐いのは当たり前です。とりあえずは残された時間を精一杯生きていくことが大事なのです。