野々池周辺散策

野々池貯水池周辺をウォーキングしながら気がついた事や思い出した事柄をメモします。

野々池貯水池で思い出す人

2011-06-07 07:01:13 | オフロード車事業


時期をとっくに過ぎたが春先の野々池貯水池を散策していると、沢山の綺麗に咲いたツバキに出会うことができる。
しかも、選りすぐりの多彩な色遣いをしたツバキばかりである。

もうかなり前の話、現役の頃であるが、ある時、ウォーキングしていると、バケツに入れた肥料をセッセセッセとツバキに施肥している人がいた。野々池貯水池の明石側に住まいの「故武本一郎」さんだ。「何をしているんですか」と聞くと、「いやな、野々池貯水池のツバキは非常に珍しい種類のものが一杯あるのに、市役所が手入れしないから、上手く咲かないんだ。だから、こうして肥料を入れているんや」と仰る。それにしても、野々池貯水池周りには、何十本ものツバキが植わっているのに、そのツバキの木の周りを掘ってはバケツ一杯の肥料を入れては埋める。これを毎年繰り返しているのだと言う。これらがあってか、今は誰も施肥しているのを見たことがないが、綺麗に咲いたツバキを楽しみながらウォーキングできる。 有り難い。感謝、感謝。
またある時、野々池貯水池のウォーキングコースを汗びっしょりになってジョギングしておられ、すれ違うと「ヤーッ」と手を挙げられた。気さくな人だった。

私は永い間、オフロード車の開発やレース運営を中心に担当してきた。
その間、ロードレース運営を傍で見る機会もあったが、ロードレースは戦績が今一つさえない時期に、不運にも景気が悪くなる時期と重なることが多く、その度にレース参戦中止の声があがると言う轍を繰り返してきた。この時期、レース活動を継続させる動機とは何かを懸命に考えていた時期でもあった。モトクロス(MX)とロードレース(RR)の決定的な差異は何かというと、両者には、その活動が直接的にお金を生み出すか否かに決定的な差があった。

MXが何故レースを継続可能かは、単車経営に欠かせない、つまり事業としてのMXは必要であり、また、その事業を維持していくには開発を継続させる必要上レースは不可欠だという理屈と実績を両立させたいとばかり考えていた。幸いに、技術部から転出された資材部長がMX車のコスト見直しを実施してくれた時期でもあり、採算性向上のための策を順次打っていった。

その時に、出くわしたのが、企画部や生産企画部の部長を担当しておられた「故武本一郎」さんである。
レース運営を含むオフロード事業にも関心を持たれ、数度電話があって、「レースを一緒に見させてくれ」との事であった。レース担当した期間(約15年近くにもなるが)、レース観戦希望者は後にも先にも「故武本一郎」さん一人だったので、その発言は極めて新鮮であった。電話で話する際は「オフロード事業の進み具合はどうや」と、まず最初に聞かれるのが通例で、他社との戦闘力予想を聞いてくれる唯一の企画マンであった。

軸がぶれていない人だなと思っていた。

種子島 経著の「くたばれ!リストラ」の「あとがき」に故武本一郎さんの人となりが紹介されている。
「信念をもって、開校したばかりの防衛大学を二年間受験したが近視のため不合格となった。やむを得ずに入った東京大学を昭和35年卒業し、当時防衛産業の比率が最も高いメーカーのひとつだった川崎航空機工業(株)(現在の川崎重工業(株))に入社した。その企画マンとしての頭脳の冴えは万人の認めるところだった。だが、誰の前でも自説を主張して譲らない剛直さ、駆け引きや妥協を絶対にやらない純粋さ、親分、子分を一切持とうとしない独立独歩性、等々は、昭和から平成にかけての大企業では、敬遠され、変人扱いにされることのみ多かった。」・・・とある。

この人物評価を読んで、然もありなんと思った。

少し話は飛躍するが、我々が担当してきたレースは常に一戦毎の戦いの連続であったが、レースシーズンが終了し、運よくチャンピオンになっても感激があるのは勝った数分だけで、あとは何も感じる事はなかった。故武本一郎さんは、経営を一つの戦いという視点で考えておられたのかもしれない。その点において、大先輩に失礼ながら許してもらえるならば、同気相求む人物だったのではないかと懐かしく思う。


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