今年(2020)の1月6日、神戸新聞明石版に明石市和坂の名前の呼び方が特集してあった。
「和坂」と書いて一般的には「わさか」と読むが、昔は、この辺一帯を「和坂」と書いて「かにがさか」と読んでいた時期があることを知っている。入社当初、工場のあった和坂を何て呼ぶのか分からず聞くと先輩諸氏から「かにがさか」と言うと聞いて、なんでこの名を「かにがさか」と読めるのか分からずのままだった。その後、工場は「和坂」から「川崎町」へと町名変更した。その後、近くに大型マンションが新しく建設され、たまたま社宅を出る時期に重なったこともあり、(45,6年ほど前だと思うが、今の神戸市に移り住む前の事)この大型マンションに引っ越した。自転車で、工場迄数分で駆け付けられるので、すごく便利だった。引っ越した当時の「和坂」は既に「わさか」と読んでおり、マンションすぐ下が神戸市との境界で、和坂1丁目となっていた。引っ越した当時は、近くに小学校はなく、娘は歩いて30~40分ほどかかる鳥羽小学校に通学し、歩いて10分弱程の和坂小学校ができたのはそれから数年後。で、神戸新聞を読んで、「和坂」を今だかって「かにがさか」と読む地域があることを知った。
「神戸新聞」
神戸新聞に、「和坂」の呼び名の由来が書いてあった。
『 明石市和坂(兵庫県)。皆さん、どう読みましたか。「あかししわさか」。正解です。でも、もう一つ正解があるんです。「あかししかにがさか」。JR神戸線西明石駅北東の一角と、明石-西明石駅間の線路沿いにあります。実は、「わさか」と呼ばれている和坂小学校一帯もかつては「かにがさか」と呼ばれていました。和坂(わさか)では今、「かにがさか」の由来をまちづくりに生かす取り組みが展開されつつあります。
1970年まで和坂は「かにがさか」とも「わさか」とも呼ばれていた。だが本来の読みは「かにがさか」。それは、この地の大蟹伝説に由来する。 〈平安時代、カニに化けて人を襲う古狐に怒り、池の大カニがやっつけた。だが今度は大カニが坂を通る人を襲う。困った住民たち。そこで巡行中の弘法大師が大カニの心を和らげ、岩に封じ込めた〉 --そうな。それで坂上寺から和坂2にかけての坂が「蟹ケ坂」と呼ばれているらしい。長年近くに住む和坂福祉会の林谷文子理事長(65)は、祖母が地元を「かんにゃさか」と呼ぶのを覚えている。
和坂と書いて「かにがさか」。難読にもほどがある。行政上の不都合が生じ、1970年、呼び方を「わさか」に変えていた。
だが、こうなると、地域とカニの関係が分からなくなる。古い住人にとって慣れ親しんだカニの村が薄れるのは寂しい。2013年ごろ、地域の古老はカニのイラストを地域のシンボルにしようと考えた。「きっかけは子どもたち。和坂小の児童が地域の歴史を勉強し、小学校の創立30年記念に校区のマスコットと名前を決めた。わさカーニの名付け親は児童なんです」。和坂校区まちづくり協議会の入江俊勝事務局長(76)が教えてくれた。(略)
■区画整理後も残った「和坂」の地名
明石市によると、「かにがさか」と読まれていた「和坂」を「わさか」と変更したのは1970年。宅地化が進み、行政サービスや郵便配達などで支障が生じてきたため、市が現在の和坂、川崎町、林、貴崎、東藤江、西明石南町一帯の住居表示を見直した。このとき、当時の国鉄明石電車区の線路上は住民がおらず、行政上の混乱が生じないとして見直し区域から外れた。西明石駅北東部も対象外だった。それで、線路上と同区域が「明石市和坂」として残った。1972年に山陽新幹線が開通。市は77年、西明石駅北部を区画整理し、野々上、松の内、小久保などの町名を設定したが、その際も駅北東部は含まれなかった。この結果、「和坂」がそのまま残った。 市によると「区画整理になぜその区域が含まれなかったのかは記録がなく、今となっては分からない」。1997年、線路の北側、国道2号の南に阪神・淡路大震災の復興住宅が完成。被災者が入居し、和坂小学校区に再び「かにがさか」の住民が誕生する。「住民にも行政にも特に支障がなく、要望もないなら、地名は変える必要がない」と市。かにがさかの地名は当分残りそうだ』
で、神戸新聞に記載がある、「和坂」と書いて「かにがさか」読んでいる地域があると書いてあったので、Google地図で明石市和坂(かにがさか)を呼び込むと、確かに国道二号線とJR神戸線間の地域(上記神戸新聞の緑色部分)を指すとある。神戸・淡路大震災のあと、復旧住宅の不足解消のため、それまではJR用地だった地区に集合住宅が建設され住民が移り住んだ(この頃の状況変化は、ずーと見てきたのである程度知っている)ことで、「和坂(わさか)小学校」に「和坂」と書いて「かにがさか」と呼ぶ地域の小学生が通うことになったのだろう。いやはや、やっと分かった。
「和坂」と書いて一般的には「わさか」と読むが、昔は、この辺一帯を「和坂」と書いて「かにがさか」と読んでいた時期があることを知っている。入社当初、工場のあった和坂を何て呼ぶのか分からず聞くと先輩諸氏から「かにがさか」と言うと聞いて、なんでこの名を「かにがさか」と読めるのか分からずのままだった。その後、工場は「和坂」から「川崎町」へと町名変更した。その後、近くに大型マンションが新しく建設され、たまたま社宅を出る時期に重なったこともあり、(45,6年ほど前だと思うが、今の神戸市に移り住む前の事)この大型マンションに引っ越した。自転車で、工場迄数分で駆け付けられるので、すごく便利だった。引っ越した当時の「和坂」は既に「わさか」と読んでおり、マンションすぐ下が神戸市との境界で、和坂1丁目となっていた。引っ越した当時は、近くに小学校はなく、娘は歩いて30~40分ほどかかる鳥羽小学校に通学し、歩いて10分弱程の和坂小学校ができたのはそれから数年後。で、神戸新聞を読んで、「和坂」を今だかって「かにがさか」と読む地域があることを知った。
「神戸新聞」
神戸新聞に、「和坂」の呼び名の由来が書いてあった。
『 明石市和坂(兵庫県)。皆さん、どう読みましたか。「あかししわさか」。正解です。でも、もう一つ正解があるんです。「あかししかにがさか」。JR神戸線西明石駅北東の一角と、明石-西明石駅間の線路沿いにあります。実は、「わさか」と呼ばれている和坂小学校一帯もかつては「かにがさか」と呼ばれていました。和坂(わさか)では今、「かにがさか」の由来をまちづくりに生かす取り組みが展開されつつあります。
1970年まで和坂は「かにがさか」とも「わさか」とも呼ばれていた。だが本来の読みは「かにがさか」。それは、この地の大蟹伝説に由来する。 〈平安時代、カニに化けて人を襲う古狐に怒り、池の大カニがやっつけた。だが今度は大カニが坂を通る人を襲う。困った住民たち。そこで巡行中の弘法大師が大カニの心を和らげ、岩に封じ込めた〉 --そうな。それで坂上寺から和坂2にかけての坂が「蟹ケ坂」と呼ばれているらしい。長年近くに住む和坂福祉会の林谷文子理事長(65)は、祖母が地元を「かんにゃさか」と呼ぶのを覚えている。
和坂と書いて「かにがさか」。難読にもほどがある。行政上の不都合が生じ、1970年、呼び方を「わさか」に変えていた。
だが、こうなると、地域とカニの関係が分からなくなる。古い住人にとって慣れ親しんだカニの村が薄れるのは寂しい。2013年ごろ、地域の古老はカニのイラストを地域のシンボルにしようと考えた。「きっかけは子どもたち。和坂小の児童が地域の歴史を勉強し、小学校の創立30年記念に校区のマスコットと名前を決めた。わさカーニの名付け親は児童なんです」。和坂校区まちづくり協議会の入江俊勝事務局長(76)が教えてくれた。(略)
■区画整理後も残った「和坂」の地名
明石市によると、「かにがさか」と読まれていた「和坂」を「わさか」と変更したのは1970年。宅地化が進み、行政サービスや郵便配達などで支障が生じてきたため、市が現在の和坂、川崎町、林、貴崎、東藤江、西明石南町一帯の住居表示を見直した。このとき、当時の国鉄明石電車区の線路上は住民がおらず、行政上の混乱が生じないとして見直し区域から外れた。西明石駅北東部も対象外だった。それで、線路上と同区域が「明石市和坂」として残った。1972年に山陽新幹線が開通。市は77年、西明石駅北部を区画整理し、野々上、松の内、小久保などの町名を設定したが、その際も駅北東部は含まれなかった。この結果、「和坂」がそのまま残った。 市によると「区画整理になぜその区域が含まれなかったのかは記録がなく、今となっては分からない」。1997年、線路の北側、国道2号の南に阪神・淡路大震災の復興住宅が完成。被災者が入居し、和坂小学校区に再び「かにがさか」の住民が誕生する。「住民にも行政にも特に支障がなく、要望もないなら、地名は変える必要がない」と市。かにがさかの地名は当分残りそうだ』
で、神戸新聞に記載がある、「和坂」と書いて「かにがさか」読んでいる地域があると書いてあったので、Google地図で明石市和坂(かにがさか)を呼び込むと、確かに国道二号線とJR神戸線間の地域(上記神戸新聞の緑色部分)を指すとある。神戸・淡路大震災のあと、復旧住宅の不足解消のため、それまではJR用地だった地区に集合住宅が建設され住民が移り住んだ(この頃の状況変化は、ずーと見てきたのである程度知っている)ことで、「和坂(わさか)小学校」に「和坂」と書いて「かにがさか」と呼ぶ地域の小学生が通うことになったのだろう。いやはや、やっと分かった。