野々池周辺散策

野々池貯水池周辺をウォーキングしながら気がついた事や思い出した事柄をメモします。

雲仙・普賢岳

2011-06-13 07:00:28 | 故郷
雲仙・普賢岳 

もう20年経った。
H3年6月、雲仙・普賢岳で大規模火砕流が発生してから20年だ。この6月5日、NHKでドキュメントドラマを放送していたので、食い入るように見た。雲仙・普賢岳がある島原市は我が故郷である。

当時、放送される普賢岳状況を新聞やテレビで見ていた。
山頂近くの屏風岩火口に接した普賢神社は激しい降灰に見舞われ、拝殿は噴石で損傷し、遠足時の弁当場所だった普賢池は死の世界に一変している。火砕流が発生した水無川流域から私の生家は約15km程北に離れているので、毎日降る火山灰以外にはさしたる被害はなかったが、翌々年車で帰省時、運転していった乗用車には一夜過ぎると火山灰が積もった。すでに主幹道路は整備されていたので、仁田峠(当時は立入禁止)近くまで車で行き、山頂から有明海まで達した火砕流跡を間近に見た。草一本も見えず赤茶けた溶岩がただ残っているだけだった。

雲仙・普賢岳には、小学校や中学校時の遠足場所でもあったので、よく登った。
春はミヤマキリシマが咲き誇り、夏は緑豊か、秋は紅葉し、冬は霧氷ができた奇麗な山であった。昨年、用あって帰省したが、普賢岳山頂の黒ずんだ溶岩ドームには未だ緑はなかったが、しかし、島原の風景は以前と同じ風景を取り戻し、相変わらずノンビリとした佇まいだった。

生家の近くに新港が造られ、台風が来るたびに波が乗り越えていた石積みの堤防はコンクリート造りの大堤防に変わった。
その代わりに、ソフトボールもできた広い砂浜は無くなり、沢山あった黒い砂鉄は何処にも見当たらず、マテガイやニシガイも姿を消したようだ。良く食べたタイラガネ(渡りカニ)やガンバ(ふぐ)は高級品となって、とてもじゃないが買えないでいる。直ぐ下の有明海沿岸に沢山あった、有明海苔の養殖クイ数も少なくなり、漁師は昆布やワカメの養殖に変えたと聞いた。

雲仙・普賢岳は220年前にも大噴火が発生し対岸の熊本県沿岸に大津波を起こし、その津波の波動が再度島原に押し寄せ、5000人以上が死亡、「島原大変、肥後迷惑」と言われた。この慰霊碑の一つは歩いて行ける近くにもある。

「火山活動」
「約200年ぶりに噴火した普賢岳。噴煙と降灰を繰り返しているうちは、まだおとなしい方だった。地獄跡火口に不気味な溶岩ドームが顔をのぞかせたのが、半年後の5月20日、その時から様相は一変した。22日、さらに細かく、ザクロ状にわれた。23日、新しい溶岩ドームが成長し、崩壊した溶岩を押し上げ、火口からあふれた溶岩塊の一部が東側斜面に崩れ落ちた。・・(略)・・。26日、ついに火砕流が発生。水無川源流の谷間を津波のように一気に下降。・・(略)・・。6月3日、想像を絶する火砕流。火口から水無川下流5キロを駆け下る。民家や野山を焼き尽くされて廃墟と化し、死者・行方不明者41人という大惨事に。・・・・(略)」・・長崎新聞社 発行より抜粋。



                                        御影石で造られた神殿(石室)は灰に埋もれてしまった。
                                         背後は屏風岩で、火口の形成で著しく変貌し、面影は全くなし。
       

 
実家は四角囲みの上限付近                寛政4年(1792年)の大噴火絵図 

上限にある国見町にはサッカーで有名な国見高校がある。                              

                    

「現在の島原」
熊本港と島原外港間フェリーからの撮影。
この場所からの普賢岳(向う側で溶岩が見える)と眉山(手前のギザギザ山)が最も美しいと思う。
(寛政4年の大噴火で、手前の眉山の半分が崩れて大津波が発生した)
                        

(写真はGoogle記載のブログから転載)
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