野々池周辺散策

野々池貯水池周辺をウォーキングしながら気がついた事や思い出した事柄をメモします。

あれから50年

2019-02-18 07:21:14 | その他
先日、会社の同期会案内のメイルが来た。
入社以来50年経ったので、集まろうという連絡だった。
入社したのは昭和44年で、それから50周年の記念宴会を、岐阜工場見学の後に長良川温泉の料理屋でやろうとの案内。

「川崎重工(株)HP」
1969年入社なので、会の名前は「69会」。入社試験を受けたのは旧川崎航空機工業(株)だが、翌年(1969年)の3社合併で川崎重工業(株)となった。入社希望はあくまで旧川崎航空機工業だったので、川崎航空機工業への思い入れは強く残っている。旧川崎航空機工業は当時、岐阜工場と明石工場がメインの工場で、岐阜工場では固定翼機、回転翼機(ヘリコプター)、飛翔体を主に開発・製造しており、明石工場は発動機、ジェットエンジンがメインで化繊や油圧ロボットも開発・製造していたと思う。同期は確か35名+だったと思うが、今回の案内先は33名で、記憶しているのにメイル先がないのが複数名いる。半数以上は岐阜滞在のままだが、その中には工学博士になったり、弁理士や社労士、出向先に転職、あるいは家業を継いだり、帰郷就職した先で社長になり、それが成功し本を書いたり海外に商売を広げたりとさまざまな同期が多士済々いる。

この会社に入社した理由は簡単で、学校の主任教授が旧川航で戦時中の戦闘機(キ60)の主任設計者だったこともあり推薦してもらった。確か5月頃に入社試験があり、直ぐに合格通知が来たので、あとは楽だった。当時の社員番号は岐阜と明石は工場ごとに別々に識別統一され、3社合併後も社員番号の変更はなかったので、社員番号をみれば何処に配属されたかは直ぐに分かる。この年、明石より岐阜工場に配属される大卒の数が多く、岐阜在住者を除けば、殆どが工場に隣接した三柿野寮に入寮した。68年以前の入社先輩はJR蘇原駅側の別の単身寮にいたので、三柿野寮入寮大卒は我々が初めてだったことあり、皆伸び伸びとして同期のまとまりも良かった。纏まりが良かったと言えば、同期でダンスパーティーやろうと、岐阜のホテルを貸し切って開催した。工場内の掲示板にポスターを作って案内を出すと、直ぐに人数は集まった。会社の掲示板にパーティのポスターを掲示したいと言うと、勤労は直ぐにOKの承認印を押してくれた時代だし、柳ヶ瀬にもよく行った。当時の退社時間は確か3時半(だったと思う?)が、夏はまだ陽も高く近くの那加のプールによく泳ぎに行ったものだ。

当時は米国製航空機の固定翼機や回転翼機をライセンス生産をしていたので、単身寮に行く迄の両側に米国のロッキードやボーイングからの出向者の芝生付き社宅数10戸あったと記憶している。工場の横は航空自衛隊実験航空隊の基地で、一時、離陸上空路の真下に住んでいた頃、F4EJのアフターバーナーの爆音には当初相当驚いたものだが、直ぐになれて、心地よい音に変わった。当時聞いた話しの一つに、明石工場で開発していた二輪レーサーが工場傍の直線路(結構長い)でテストしていたと聞いたこともある。

入社当時は回転翼機のタービンエンジンからロータ間をつなぐ主駆動系担当課に所属し、当時ライセンス生産が始まろうとしていた観測用ヘリコプターの駆動系の国産化テストだったが、テスト基準に沿って毎日テストに明け暮れた。当時の回転翼機設計の最新の計算や基準、MILSPECに接する機会があったことは、その後の開発手法に大いに参考となった。特に、当時の疲労試験や疲労寿命の計算方法、応力集中式や表など、当然初めて見るものばかりだが、丁度そのころ、有限要素法の Nastran 解析プログラムが導入されつつあった時期だから半世紀前の昔の話しだ。折しも、1970年頃当時はベトナム戦争の真っ最中で、戦争から一時帰休のヘリの整備等、戦争の一部分を垣間見ることが出来たのは貴重な経験で、その他にも面白い話題を沢山記憶しているが、また紹介できる機会があればとしよう。

その後、単車事業やジェットエンジン事業の拡大に伴い、岐阜から明石に移動した。この頃、岐阜のバス事業が撤退したので、多くの技術者等が明石にやってきた。その少し昔、明石のヘリ(ベル47)が岐阜に移動したのと逆パターンだ。単車担当に異動した後も、数度、岐阜工場の旧友と接触する機会があった。一度目は73か74年頃、2サイクルスクエア4気筒水冷750のラジエターの冷却能力測定のために岐阜の風洞試験装置を借りた。ラジエーターの車速通過率の測定と二輪車の空気抵抗荷重の測定だ。ラジエーターフィン間に細いピトー管を内製して総圧と静圧を測定しフィン間の流速を、シュラウドの形状を変えながら測定するが、風洞の風速に限界があるので予測値もある。戦時中にも使用された風洞試験装置だと思うがよく整備されていた。次の機会は二輪ロードレーサーのカーボンファイバー製スイングアームの開発だった。ロードレースを担当する前なので直接の担当ではないが、当時の藤川技術部長の肝いりもあって、後輪ばね下荷重の軽減と剛性の影響を調べるために岐阜工場で炭素繊維スイングアームを試作していた。岐阜の炭素繊維の専門担当だったのが、同期のK君だったので一緒に研究会に立合う機会もあり、当時の炭素繊維の強度等を色々教えてもらった。炭素繊維の研究と設備については、岐阜工場の技術者は当時の世界第一級の技術を持っており、端から見ていて実に興味深いものがあったが、当時のロードレース部門では扱いきれず、従来のアルミ製に固守していた。今の最先端のロードレーサーが炭素繊維製部品を多用しつつあるのを見ると、途中で既発中止にしたのは実に勿体ない技術だったと思う(他社も、同時期、炭素繊維を研究していたようだ)。3回目は、岐阜工場の飛行課にアメダス情報を提供してもらったこと。1993年以降、ロードレースも担当するようになったが、その際も岐阜工場にお世話になった。鈴鹿8耐レースにおいて、勝てない理由に挙げられたものの一つに、当時契約していたタイヤの雨天時性能があった。雨が降るとミシュラン製のタイヤに比べて大きく劣るので勝てないと担当者は言う。しかも雨がいつ降るかも予測つかないので不安だと、鼻から負ける理由を挙げてくる。当時は、現在のような正確なアメダス情報は公開されておらず、必要な情報は高額で買わねばならなかった。色々と問い合わせていると、岐阜の飛行課(毎日の飛行計画立案に気象情報を入手していた)がその情報を持っていることが分った。飛行課は良く知っていたので、飛行課から時間毎に変化する詳細なアメダス情報を鈴鹿サーキットの事務所にFAXしてもらうことにした。鈴鹿もびっくりしただろうと思うが、送付されてくるたびにピットにアメダス情報を持ってきてくれた。その年は雨は全く降ることなかったので、貴重なデータを使う事もなかったが、その橋渡し交渉をしてくれたのも同期寮同室の、その後工学博士となったB君。それでも万が一の雨に備えて、雨天に強いとされるメーカーのレース用市販タイヤを別購入して備えたが、雨が降らず契約で揉めることもなかった。

マー色々思い出すこと多いが、もう50年も経つととっくに時効となった笑い話ばかりで、時の過ぎるのは早い。
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