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「KX40周年にあたっての思い出」
百合草三佐雄
第1回全日本モトクロス大会が行われたのは1958年4月、大阪府下信太山自衛隊演習地内で開催された。
カワサキがオートバイ事業に進出したのが’60年だからまだカワサキ車は参加していないが、メイハツ車は
参加していたかもしれない。
’62年の第6回全日本では三吉選手が2位に入り、カワサキ初の入賞となった。短期間に開発できたのは
設計の松本さん、実験の宗村さん、メイハツから来た堤さん、それにモトクロスの名物おやじ松尾さんによる
ところ大であった。赤タンクカワサキの名声の出発は青野ヶ原自衛隊駐屯地において兵庫主催の第1回モトク
ロス大会(観衆1万人)にて、1~6位までカワサキが独占したことである。
当時単車事業部は赤字が続き事業見直しの議論が行われていたが、赤タンクの活躍でこのカワサキの技術を
活かせば事業は軌道に乗せることができるとの判断が下された。KXの先輩が事業を救ってくれたのである。
KXが’73年に生まれ、その時期のレース監督となった。平井さん率いる神戸スーパースポーツの竹沢選手が
各地のレースで好成績をあげ、KXも順調なスタートを切った。KXが生まれる前には三橋、星野,海津、山本、
歳森選手らの活躍があった。KXが誕生した頃は世界モトクロスの主流はヨーロッパ勢であった。
アムステルダムを拠点として岩田さんが駐在し、開発ライダーにペテルソン、レースで勝つためにハンセンと
契約しヨーロッパ各地のレースに参戦し、KXの開発を行った。
’76年KMCに駐在したが、各レース場はスズキ、ヤマハのオンパレードでKXの姿は殆ど見られなかった。
そこで、販売店の支援費として営業で使っていた費用をR&Dに移管してもらい、チームグリーンを創設した。
ピート堤さんを長としてジョーダンを補佐とし、レースにおける代理店の支援を行った。
これが当たって、各地でカワサキが驚異的な活躍をすることとなった。
例えば、’89年(年間)のラスベガスWorld Mini GPではKXのEntriesが43%、KXのWinsが71%また
Ponca CityのNMA FinalsではKXのEntriesが46%、Winsが76%と驚異的な成績である。
これらの成績も明石の開発部隊の研鑽の賜物であり、チームワークの業績である。
AMAのチャンピオンとなったジェフ・ワードが時の大統領レーガンから表彰されたのも思い出の一つである。
参考資料)小関和夫著「カワサキ モーターサイクルズ ストーリー」三樹書房
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