しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

「父の野戦日記」⑦コレラで死んでいく人

2022年08月13日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)

(父の話)
信陽への行軍は真夏じゃった。
真夏の漢口戦での光州行軍は多くのひとがコレラになった。
小さな小屋のなかにはコレラにかかったひとがびっしりつまって横になっていた。
コレラになった人は尻からビチが出ていた。

コレラは一種の脱水状態で、蒸留水を注射すれば助かるのだが・・・しかも現地でこしらえてもいたが、
(あまりに発病者が多く)それが足らんようになった。
助かりそうなのから選って治療して、そうでないのはホッテ、尻に石灰をかけてそのままにした。
ようけい死んだ。

談・2000.7.9

・・・

「歩兵第十聯隊史」 歩兵第十聯隊史刊行会 昭和49年発行

 

第十師団は歩兵第第八旅団が先頭にたち、我が歩兵第三十三旅団は大した戦闘を交えることなく進軍したが、

8月末の晴天つづきの炎天下であり、昼間百十余度も騰り、

当時携帯食糧等の負担量多く、給水また十分でなかったので、

落伍者多く喝病患者また発生、

マラリヤ、コレラ患者も続出して、苦難を極めた難行軍であった。

 

・・・


「岡山県郷土部隊史」  岡山県郷土部隊史刊行会 山陽印刷 昭和41年発行

漢口攻略戦・その一 光州への行軍


徒歩行軍で8月27日~30日慮州に入る。
第十師団は第三師団とともに光州へ進む。
行進したのが8月末の炎天下であり、日射病にかかる者数多く、
兵隊は唯だ黙々と歩み続けるのであるから、その労苦は倍加し、
敵兵の出現を願う気持ちとなる。
一休みできるからである。
倒れた戦友の死体をダビに附す暇もなく、道端の戦友を抱き起す力もなく、
その足もふらふらしている。
マラリアは蔓延し、兵糧は現地調達のため不足している。
この行軍は実に難行軍で惨憺たるものであった。

・・・

(父の話)

行軍は真夏に続く、昼も夜も・・・。
「戦闘!」の時がはじめていっぷくできるときだ。
・・・「戦闘!」が待ちどうしい時もある。
戦闘がないと休みなしで歩く。歩きつづける。ナンボーにもえろうて、
「弾にでも当たりゃあエエ」と思うたりもする。
当たれば休めるから。
が、死にたくはない。
(死傷病者はどうなるのか?)
隊の後ろが野戦病院の列でそれが、トラックの時もあるし、たいていは馬がひくことが多かった。

談・2000.7.9

・・・

 

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「父の野戦日記」⑥武漢攻略戦へ

2022年08月13日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)

【父の野戦日記】


ぬかるみを歩く
2~3日の雨が降る。
本日も雨である。 急に激しくなってきた。 予定のとおり六時出発だ。
雨はますます降り、我々は身も濡れ、濡れ鼠のようになって、一路目的地へと進む。 足はぬかるみにとおり、土は身体につく。

「たいてい」の二の舞だ。ますます激しい雨。休みつつすすむ。 実に戦場ならではの光景。
○○部落にて

昭和13年9月20日

 


・・・

 

「歩兵第十聯隊史」 歩兵第十聯隊史刊行会 昭和49年発行

 

漢口作戦

漢口進撃命令が下ったのは昭和13年8月22日であった。

漢口進撃作戦に従事した中支那派遣軍は、総兵力30万をこえる大軍団であった。

我軍の作戦進路は四路に分かれ、

我が第二軍は大別山の北麓に沿って信陽に進攻し漢口北方へ迂回するものであった。

8月27日、第十、第十三師団は金橋、椿樹嵩の線より行動を開始した。

8月28日、師団は六安を占領した。

道路は予想の如く不良で、尚且つ敵の破壊甚だしく車両部隊の追及は困難を極めた。

 

・・・

「近代日本戦争史3」 奥村房雄 紀伊国屋書店 平成7年発行

徐州会戦の成果

徐州会戦は北支方面軍と中支那派遣軍との間で、指揮関係のない,協同という形で行われた。
準備段階から両者を統制し、かつ作戦終了後の後始末まで同一指揮で律することに問題があった。
徐州会戦の勝利は、国民を歓喜させた。
政府に支那事変解決への意欲を与えた。
近衛首相は広田弘毅外相に替えて、宇垣一成大将を外相とした。
宇垣新外相の登場は、長期戦化の様相を呈してきた支那事変に、なんらかの局面打開の道を、開くのではないかという期待を抱かせた。

 

漢口作戦への転移

大本営は徐州会戦の間、漢口作戦の準備も進めた。
その際問題となったのは漢口作戦と広東作戦を同時に実施できないかということである。
二つの作戦の同時実施は無理のようであった、漢口作戦が先となった。
昭和13年6月23日、政府は声明を出し、
「支那事変は徐州陥落により戦局の一大進展をみたが、なお官民一体となって長期持久の戦時体制を確立して、時局に対処しなければならない」と述べた。
7月4日武漢攻略戦の態勢が整えられた。
中支那派遣軍は、畑俊六大将、四箇師団。
第二軍司令官は、東久邇宮稔彦中将、四箇師団。
第十一軍司令官は、岡村寧次中将、五箇半師団。

第二軍第十師団(抜粋)
第二軍の諸隊は7月中旬蘆州付近への集中を開始した。
第十師団は津浦線で蚌捍まできて、淮河をわたり、後徒歩で100キロ以上の道を蘆州に向かった。
8月26日蘆州付近に着いたが、その間、道路は不良で、そのうえコレラが発生した。
ここから西進したが、ここでも道路は道路は徹底的に破壊されていた。
しかも炎熱下の前進である。
第十師団は28日六安に着いた。

昭和13年8月22日、大本営は武漢攻略命令を下命した。
9月7日、御前会議において広東作戦の実施が決定された。

第二軍の西進
大別山北麓の第二軍は、道路の破壊が甚だしく、自動車による補給は困難と思われた。
このため糧食、弾薬等は駄馬運搬あるいは個人携行とし、
なるべく多くを持って、迅速に光州まで前進することにした。
8月29日から9月1日までは晴天続きであった。
炎熱甚だしく、携行糧食の負担が重い。
9月2日第十師団の一部、商城方向に突進させ、富金山の中国軍を背後から脅威した。
第十師団は9月7日固始を占領、次いで17日光州を攻略した。
光州、商城攻略後どうするかについて、第二軍は
第三・第十師団をもって速やかに信陽方面の中国軍を撃滅し、
第十三・十六師団をもって、大別山を突破するという方針を固めた。

 

・・・

 

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