しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

「生ききる。」と「アーロン収容所」

2022年08月16日 | 昭和20年(戦後)

会田教授はアーロン収容所から復員中に、

日本に帰れば、すくなくとも将官だった人は全員、

逮捕されるか、自ら責任を取って死んでいるだろうと予想し、その予想がはずれていたことに驚いたことを記している。

 

戦争責任については、父も似たようなことを言っていた記憶が強い。

 

・・・・

 

「生ききる。」 瀬戸内寂聴・梅原猛 角川学芸出版 2011年発行


梅原
昭和20年4月、京大の入学式が終わって家に帰ると召集令状が来ていました。
もし、広島や長崎の原爆投下がなかったら、軍部は本土決戦を決行し、私自身も戦死していたと思う。
戦争が終わった時に、ないものと思っていた自分の命が助かったのですから、敗戦は決してショックではなかった。
むしろ未来が開けたという喜びの方が強かった。
私は、「鎮魂の森」のようなものを作るべきじゃないかな。国の施設として。
多くの人が死んだけど、大変な犠牲があったけど、もう二度とこんなひどい目には遭わせないという、そういうことを確認できる場所を作るべきじゃないかと思います。

瀬戸内
北京で終戦を迎えた時、私は「殺される」と思いました。
だってそれまで日本人は中国人に対して占領軍の立場で威張りくさってほんとにひどいことをしていたわけですから。
夫が現地召集で出征し、まだ生後一年経たない赤ん坊を残されました。
「もう殺される」と戸を閉めて閉じこもったんですけど、そうっと朝、
戸を開けてみると、壁に赤い紙がぺたぺた貼ってある。
それに「仇を報いるに恩をもってす」と書いてある。
時の中国軍は蒋介石がトップです。
ああ、こんな国と戦っても負けるの当たり前だと思ったんです。


・・・・

・・・・


「アーロン収容所」 会田雄次著  中公新書 昭和37年発行
戦後の犠牲

日本陸軍の主計部ほど奇妙な官僚主義にとらわれた組織も珍しい。
糧秣廠も、被服廠も「集積」するためにあるので、「支給」する場所ではなさそうだ。
支給してしまうといかにも係が能力がないように見え、司令部からしかられる。
そういう根性であろう。
私たちの靴がなくなろうが、衣類がボロボロになろうが、めったに支給してくれなかった。
そしてその集積品の多くの場合、敵の砲火で灰になってしまうのであった。

私の場合でいうと、二年間のビルマ戦線生活で、何かを配給されたのは、ごくはじめの昭和19年夏以前をのぞくと一切なかった。
食糧は全部徴発、つまり掠奪したり物々交換したりした。
シャツ、靴、飯盒、水筒、地下足袋、小銃、帯皮、天幕、背嚢、みなボロボロで使えなくなってしまった。
いま持っているものは、
すべて前線でひろったり、戦死者のものをみなで分けあったりしたものばかりである。
それが終戦の今となって支給するというのである。
靴などどうしていまごろ支給するのだろう。
すこしまえに分けてくれれば死なずにすんだ男もいたのだ。

初年兵の吉村は、和歌山の高商を出たという快活な青年で、一年ぶりに会った。
会ったとき「君に読ましたい本を持っているんだ。帰ったらたずねて行くよ。」
とうれしそうに言っていた。・・・・

吉村は無頓着にザブリと河のなかにふみこんだ。
やや無造作に、しかし確実に十歩ほど前進した吉村は急にうごかなくなった。
川はそのたりで急に深くなっているらしく、乳のところまで濁流がうずまいている。
吉村は必死に鋼線をにぎって水圧をこらえていたが、あっというまに足が浮いてあお向けになった。
そのとき私たちをじっと見た目はいまも忘れられない。
それは声にもならず、懸命に救いを求める絶望的な目であった。
次の瞬間、吉村の手がはなれ、水中に没してしまった。

二時間以上おくれ、やっと全員寺に着いたとき、先着のM班長は食事の準備もしていてくれたのである。
骨の髄まで冷えこんだ私たちには、腹にしみ入るほどのうまさである。
兵隊たちはもう衣類をかわかして元気にはしゃいでいる。
死んだ人間のことを思うより、今度もまた、自分は助かった、という喜びの方がはるかに強いのである。
もっとも親しい友を失った私でもおなじことである。

せめてここに一筆をしるして、おわびと思い出にしたい。

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