しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

茂平の七夕

2022年08月04日 | 城見小・他校

子どもの夏休みの日、家の横の道を、垣根越しに子どもの声と七夕が歩いていた。
大きな声と、半分見える七夕飾りで「ああ、そうか今日は七夕か」と気づくのが毎年のことだった。

西ノ谷の子どもが何組かで七夕飾りの行列、・・・といっても横に倒して路上をひこずりながら海に向かっていた。
胴山の子どもは、それで七夕当日と知り、庭の七夕飾りの紐を解いてから、海に向かう、
それが茂平の子どもの「七夕の朝」だった。

 

 

親たちは畑(のえ)に行って家は留守った。
夏休み期間は、茂平の親たちにとって、一年のかきいれ時で子供が起きた時にはもう、家にいなかった。
子どもは、七夕飾りを横倒しの状態で、茂平の水門まで持っていった。
水門前の海(「ひどう」と呼んでいた)に七夕飾りを流した。
先着や降着の七夕があり、子供心に”七夕”という行事を感じていた。


七夕飾りは、藪に行って竹を1本伐って家に持ち帰るところから始まった。
次に番屋に行ってナスビやスイカの飾りと、こよりなどにする紙を買ってくる。
紙に願い事を書き、こよりは女の子が作ってくれた。
家の庭(かど)の端にある杭の木に竹を結び、飾りをつけた。

毎晩、夕方になると涼み台と呼ぶ長方形の木製の台に座ったり、寝ころんで、
天の川や織姫や彦星を見ていた。
暗くなる前は蝙蝠が数匹飛んでいたが、夜になるといなくなっていた。
その頃には一日の仕事を終えた父も星を眺める日々があった。
(母は一度もない。女性は半分奴隷の時代だった)

後から想い出すに、子どもがいない家、子どもが男だけの家ではその家で七夕飾りを見たことがないような気がする。
女の子が主体の行事だったのだろうか?


・・・・


今日は「七夕の日」。
恥ずかしながら、管理人の子ども時代の「七夕」。↓

 

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盧溝橋事件、どこで何を誤ったのか

2022年08月04日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)

国家のデザインを描き、その意味を国民に説明し、最後に国会で決議し、実行する。
そういう首相は非常に残念ながら、滅多に出ない。
ここ30~40年間でいえば、
一に中曽根首相、二に竹下首相、三に・・・いないわ。
この二人だけ(涙)。

 

 

 

「歴史街道」  PHP 2021年9月号

盧溝橋事件、どこで何を誤ったのか  井上寿一

昭和12年(1937)7月7日に北京郊外の盧溝橋で起きた、
日本と中国の偶発的な軍事衝突は、その4日後現地で停戦協定が結ばれた。

日中双方にそれぞれ事情があり、ともに戦争する気などなかったからだ。
日本は、対ソ戦の準備を優先させたかった。
中国は、国民党の蒋介石は共産党との内戦に備えるため軍事力消耗を避けたかった。

一つの要因として、日本が兵力を増員したことだ。
中国に圧力をかける背景があったが、新聞・雑誌の等のメディアが、
「断固排撃する」「膺懲(ようちょう)する」といった見出しの記事を掲げて、強硬論を展開するようになっていた。
「勝った、勝った」と威勢のいい話を求める読者向けの紙面づくりが主流をなした。
極端なことをいえば、戦争不拡大を支持したのは陸軍と外務省ぐらいだった。

昭和14年(1939)にはいると、日中戦争は膠着状態に陥る。
陸軍は「昭和15年中に戦争が終わらなければ、大規模な撤兵を行って、対ソ戦に備える」
という軍事戦略をたてた。
ところが昭和14年9月1日、第二次欧州大戦が始まった。
緒戦でヨーロッパを席巻したドイツとイタリアに最接近、三国同盟を締結した。

苦い教訓
日中戦争において日本政府は、戦争目的を「暴支膺懲」から「東亜新秩序」に変えたり、
蒋介石と和平を結ぼうとしていたにもかかわらず「国民政府を相手にせず」と宣言した。
国家のグランドデザインがなかった。
さらに戦争目的が曖昧であった、
二点目は、ポピュリズムの陥穽に落ちてはいけないことである。
三点目は、「組織利益よりも国益」の重視である。
陸軍と海軍はそれぞれの組織利益を守ろうとして、最終的に国家が破局を迎えた。

 

 

「歴史街道」  PHP 2021年9月号


両国の衝突をもたらした構図と問題の根源  岡本隆司

日清戦争・日露戦争に勝った日本人は、自国を「文明国」だと思い、
中国に「文明」を強要し、
「中国が日本のようになれないのは、劣っているからだ」
という考え方が根強かった。

「互いに相手のことを知らない」
という傾向はいまでも色濃く、根の深い問題である。
少なくとも、
「自分は相手をどこまでわかっているのか」
と、常に懐疑的であるほうが、泥沼の対立に陥る危険は小さくなるのではないだろうか。

・・・・

「歴史街道」  PHP 2021年9月号
「戦略」から読み解く泥沼化の真相  大木毅

昭和12年、盧溝橋の銃声は、およそ8年におよぶ日中全面衝突の引き金となった。
今日では国民政府軍兵士による偶発的射撃だったと考えるのが、もっとも説得力のある説とみてよかろう。
だとすれば、
この偶然、盧溝橋の銃撃がなければ日中戦争は起こらなかったのだろうか。
むろん、そうした主張は成り立たない。
それでは、日本政府や陸海軍は、当時4億の民がいるといわれた地大物博(ちだいぶっかく)の大国との戦争にあたり、
いかなる戦争目的を以ってのぞんだのか。
--驚くべきことに、
当時の日本には、戦略という名に値するような戦争指導方針はなかったのである。

昭和16年(1941)12月8日、日本は米英蘭に宣戦布告した。
短期間で中国を屈服させ、日本の要求を認めさせるはずだった「支邦事変」は、
連鎖反応的にその他の諸国との敵対につながり、
ついに世界大戦への突入をもたらしたのだ。
結局、大陸は日本にとっての鬼門でありつづけた。
そこでの戦略なき戦争は、長期にわたる多大な出血を招き、
さらには亡国の世界大戦をもたらしたのでる。

・・・・

 

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