しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

皇族でない人の国葬  2022年9月27日(予定)

2022年08月25日 | 令和元年~
戦前は法令に基づき、天皇陛下が決めていたそうだ。
戦後は法令がないので、内閣の思いつきで決めるそうだ。
どの時代も”人”の面と、”費用”の面で問題があり、国葬者は少ない。


山本五十六元帥は、本人の遺志とは逆に、鬼畜米英の敵討ちに利用された。
吉田茂元首相は、国民や経済が昭和元禄の真っただ中で、穏便に行われた。
安倍晋三元首相は、銃撃による急死だったが、国葬を決めるのも急で、世論も賛否が拮抗している。


・・・・


「サンデー毎日」  2022年8月21.28日号 毎日新聞社


国葬が政治論点になった貞明皇后(大正天皇の皇后) 

成城大学森暢平教授


戦後初の「国葬」が議論になったのは、1951(昭和26)年、貞明皇后が亡くなった時である。
66歳で、突然の悲報だった。
戦前と異なり、国葬の一義的な主催者は政府となる。
日本憲法下の最初の議論から、国葬は「政治」とは無縁でなかった。


戦前、国葬令が存在した。
天皇、皇后、皇太后が亡くなれば国葬であった。
ところが戦後失効した。


『昭和天皇拝謁記』によると、
「占領下のため、国葬を望まぬ」吉田首相の意向や、
法相が、法制上国葬なるものは存在しない述べた。
吉田首相は”国葬を考えたが、天皇が遠慮した”という言い訳で、議論をしのごうとした。
天皇は、
「政府の申し出を、私が及ばぬと言える筋合いのものではない」と述べた。


このとき、与野党から「国葬法案」の競い合いが始まった。
しかし、
「誰を対象に」
の問題を詰める必要があった。
戦前は、皇族および「国家に偉功」が対象である。
勲臣、元老、名将を、政治から超越した立場にある天皇が選び、
国葬という名誉を与えるものだった。
対象を選択する主体が天皇ではなく、内閣になれば、必然的に「政治」となる。


内閣の思いつき
皮肉なことに、貞明皇后の逝去から16年後に吉田がなくなった時、
戦後初の「国葬」が行われた。
ワンマン吉田の国葬に、野党社会党は国費支弁の側面から反対した。
社会党
「なるほどこの人ならば、という基準がなく、いうならばときの内閣の思いつきでやるのは賛成しかねる」
大蔵大臣
「御承知のように法令の根拠はございません。
やはり何らかの基準をつくっておく必要があると考えております」
答弁だけに終わった。


「全国民」が死を悼む国家イベントが国葬である。
安倍晋三元首相の国葬には賛否が拮抗する。
そうしたなかで実施される国葬にはやはり、
違和感を覚えざるを得ない。


・・・
 
(山本長官・おじのアルバムから)
 
・・・

「サンデー毎日」が見た100年


1943(昭和18)年 山本五十六戦死
国葬で示された”遺志”


1943(昭和18)年4月18日、山本五十六連合艦隊司令長官は、南太平洋のラバウル基地から前線視察に向かう飛行機が撃墜され、死亡した(当時59才)。
遺骨は戦艦武蔵に乗せて、5月21日横須賀港に帰港した。
同日、山本長官の戦死が大本営発表と同時にラジオ放送された。
《嗚呼!この提督にして、はじめて曠古(こうこ)の大戦果が挙げられたのだ》
と感慨無量だ。
そんな国民的英雄を失ったマイナス面を軍部は逆手に取ったふしがある。


1943年6月5日、山本長官は皇族、華族以外では初めて「国葬」により送られた。
日米開戦時から講和を目指していたとされる山本長官の”遺志”は、
結果として別の言葉で代弁されることになる。


《この日、日比谷葬場に進む葬列を見送る市民の大群の誰もが、
大空と怒涛のなかになお叱咤する元帥の雄姿をありありと見たのである。
米英撃滅の拳を揮って居られる姿を見た。
そして誰も彼もが米英撃滅への拳を握りしめたのである》
本誌6月27日号は力んだ筆遣いで伝えている。


・・・・

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 笠岡シーサイドモール女性専... | トップ | 9月3日  ロシアの「対日戦... »

コメントを投稿

令和元年~」カテゴリの最新記事