しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

8月8日、福山の空が炎に包まれた夜

2022年08月08日 | 昭和20年(終戦まで)

祖母は跡取娘だったので、生涯茂平から出ることはなかった。
その祖母が、同じ話を何度もするのがふたつあった。
一つは、明治時代の茂平の堤防が決壊し、お宮の前まで海水で浸かったこと。
二つ目は、昭和20年の福山空襲で普段は真っ暗な茂平は、昼間のように明るくなったこと。
何度も何度も同じ話を聞いた。


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義兄は福山東国民学校の生徒だったが、笠岡の篠坂に疎開し、親と離れ陶山国民学校に通学していた。
義兄は疎開生活のつらさを、ときどき話していた。
福山空襲の日は燃え上がる福山市街地を眺めながら怖さと、家の心配で震えながらすごしたそうだ。
戦争が終わり、福山からお母さんが迎えにきた。
当時、義兄は3年生だった。

 

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「井原市史2」 
8月8日夜10時ごろ、空襲警報が鳴って、火の手、黒煙のあがる福山空襲の様を見ていた。
13日にはいよいよ空襲の標的と身に迫る危険を避けるため、ベンガラを購入して松根油を溶いて白壁を塗った。

 

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昭和20年8月8日焼失した、国宝・福山城天守閣。

 

 

昭和41年に再建したが、なぜか姿・形がまがい物。

今年”令和の大普請”の名目で昭和20年の姿に復元、2022年開城。

再建天守を解体したのは「耐震」が理由で、まがい物を造った責任は誰にもなし、責任論すらない。

 

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「広島県戦災史」 広島県 第一法規出版  昭和63年発行  

歴史の教えるもの

米軍は7月31日に、福山空襲を予告し避難を勧告していた。
3月の東京空襲以来、全国の各都市が空襲され、大量の人的被害をだしておきながら、
軍・警察・市の指導者は、全市民を市内からあらかじめ退出させる措置をとらなかった。
むしろ「空襲前、警察は市民に火災を防ぐため疎開してはいけない」とし
「福山では、男は絶対逃げてはならぬ、残って家を守れ」と命令されていた。

それは、戦争指導者が作為した「神州不滅」や「一億玉砕」の覚悟という非合理的スローガンが自己呪縛となり、
末端指導者をして、避難勧告に従うことは敵の策略に乗せられることではないかと疑心をいだかせ、
人命尊重を優先させず、むざむざと多数市民を死傷させたのである。
自己呪縛が戦争指導者全体から、事前に避難を命令しうるような権限を奪い去っていたのである。

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