しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

「父の野戦日記」④赤柴連隊長へ着任の挨拶をする(昭和13年5月15日)

2022年08月11日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)

黄河を渡り済南へ
途中、同輩が苦心して得た○○駅、○○駅を戦跡を眺めながら渡る。 銃弾砲撃した跡を眺めつつ通過していく。 各駅は警備の兵が我々の○○を守ってくれる。 日中は大変暖かくなってきた。 広漠たる地平線、遥かなる地平線を汽車は、一路大陸へ大陸へ。 部落には日章旗と五色がひるがえっている。 農夫もみうけられた。 子供たちは鉄道付近にきたりて、「バンザイ」「バンザイ」と叫びつつ、僕らを歓迎してくれる。 午後6時30分。東洋の大河・黄河の鉄橋にとおり着く。
その鉄道は陰もなく破壊され、むしろなにを運ぶ・・・・無事汽車は通過し、午後7時汽車は済南に着いた。
【父の談話】2001年8月6日(破壊された黄河鉄橋では)船を繋いで、その上にレールを敷いとった。 爆破しっしもおて、鉄道があったのが。 船は浮きになるんで、その上に柱を繋ぃで、鉄橋にしとった。

済南に着く
済南は山東の都だ。建設物が勇壮で、実に平穏だ。
しかし空爆のあと、砲爆の跡、銃撃の跡が見える。
ごうけん部落の××にて合掌する。

赤柴部隊へ
遠くのほうで銃声・砲声が聞こえる。しかし、待ちに待った戦場へいよいよ到着したのだ。
戦車・装甲車の車輪の音。 自動車のひびき、ごうごうたる○○本部だ。
本日はいよいよ隊へ配属されたのだ。 自動車にて一路戦線へ、戦線へと進む。
途中の戦跡、戦傷者の輸送。 各隊のものものしい警備。 顔、みな悲壮な決心がうかがわれた。
無事午後1時30分、赤柴部隊本部へ到着する。ああ戦場の柳の木、しょうようは散り倒れ、穴も各所に見受けられ、時々は、敵の不発の手のやつが空をじっとにらんでいる。 実に物騒なところだ。
流弾が地上をかすめる。 兵は皆、鉄帽をかぶり家の内や、穴の中に潜り込んでいる。いよいよ、第一戦だなあ、でも赤柴隊長殿の英姿をあおぎてわれ等も元気をだす。
言葉をいただき我等衛生兵10名はそれぞれ各隊へ配属される。

 

「父の野戦日記」昭和13年5月15日

 


【父の談話】2001年8月5日
父の談話
そりゃ、行ったときにゃ皆。穴ん中へおったんじゃけいのう。 穴の中から出てきて挨拶。せぃが済んだらまた穴ん中へ。

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「歩兵第十聯隊史」 歩兵第十聯隊史刊行会 山陽新聞社 昭和49年発行

昭和13年5月14日瀬谷支隊命令
一、徐州方面の敵軍は動揺、軍は速やかに主決戦を徐州西方地区に導き敵の撃滅を図る。
二、支隊は逐次第百十四師団と交代する。
これに基き赤柴聯隊長は15日、要旨命令を出した。
斯くて、5月15日各隊は転進のための交代準備に忙殺されつつあった。

 

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「近代日本戦争史・3」 奥村房夫 紀伊国屋書店 平成7年発行
 
徐州正面では、第二軍の第五師団、第十師団が中国軍を十分に牽制、抑留した。
5月6日派遣軍司令官畑俊六は、南京周辺の警備に任じていた第三師団軍にも、徐州作戦への参加を命じた。
台児庄正面では、牽制・拘留に任じていた第十師団が、その任務を第百十四師団に譲って嶂県付近に集結し、その先遣隊は5月16日、微山湖を渡って西岸に進出した。

 

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「歩兵第十聯隊史」 歩兵第十聯隊史刊行会 山陽新聞社 昭和49年発行

我が聯隊は敵と近く相対峠し、大いなる犠牲を払わずんば到底戦闘を進捗せしむるに能わず。
戦線は膠着し戦闘は遂に交綬状態に陥った。
支隊は現在の戦線を堅固に確保し次期作戦を準備せんと5月4日から14日に至った。

 

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「父の野戦日記」③宇品~塘沽~天津

2022年08月11日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)

洋上にて
海峡にそって、ああ船はすべり目的地へ、目的地へと玄海灘をすすむ。

若者の○○は、なにものぞ。 洋上にでて、水平線場で夕陽を拝む。さざなみのように実にうつくしい。

船は洋上の彼方へ彼方へと進んだ。


昭和13年5月10日(洋上にて)

タンクーへ上陸
海上無事、タンクーへと上陸だ。大陸第一歩の喚声やいかん。
我が先輩らが血を流して得た土地。
もくもくと点在する民家も倒れ、砲撃の激しさを語っている。
ところどころに残る砲弾の跡。だが支那の人家は皆、土の壁だ。
もぐらか,蟻のありかのようだ。
支那保安隊の警察団のものものしい警備。

一路天津に向かう
タンクーより汽車に乗り、一路天津に向かう。
車窓に映る大陸の景。広漠たる平野だ。
まったくぞくぞくする水平線の各戦跡の車窓。
我等は元気で天津に着いた。

天津
天津は平穏だ。この土地が敵国の土地か。 多くの兵士でいっぱいだ。
 各機関は思うように運転している。
 支那特有のチャーチャンが多く、シャーシャンを見る。 (←チャーチャンまたはショーシャンは不明・未確認)
午後7時天津を出発済南に向かう。


昭和13年5月12日

 

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「近代日本戦争史・3」 奥村房夫 紀伊国屋書店 平成7年発行

徐州会戦の経過

徐州作戦の実施が決まると、北支方面軍は第二軍に、
第百十四師団と第十六師団を配属し第二軍の戦力を強化した。
第十師団の攻撃は当初順調に進展し、四月末まで台児庄東方10キロまで進んだ。
だがその後中国軍の抵抗は激しく、師団は苦戦した。
第五師団も中国軍の反撃を受けて、五月にはいっても両師団の苦戦はつづき、
状況は楽観を許さなかった。

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8月9日に戦争が始った国④開戦後、日本人は即棄民

2022年08月11日 | 昭和20年(終戦まで)

当時・吉林市に住んでいたおば(父の妹)の話

日本人は今まで「タイタイ」、大将でおったのが。
そりゃぁみじめなもん。
戦争で負けたらもう、社宅へ向かって石は投げるし。
暴動みたいに、だーっと家の中にはいり衣類は取られるし。
天皇の玉音を聞いたら、もう日本人は全員殺される。

ロシアが明日やってくる。ロ坊主(ろぼうず)ゆうてようた。
ロシアがきたら、女性は全員出ていったらいけん。
頭は坊主にして、顔に墨を塗って。
社宅をくりぬいて、一部屋にして。
畳をあげて下に隠りょうた。
鈴をつけて、鈴が鳴ったら「女はみんな隠れろ。」
床の下に隠りょうた。
あるものは全部盗られた。
腕時計まで取られた。

談・2002・4・30
(おばは翌年、葫蘆島から帰還。その間に一子を亡くした)

 

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8月9日に戦争が始った国④「日ソ戦争 1945年8月」   富田武 みすず書房 2020年発行

吉林省新京の占領軍

(首都・新京の外交官の回想記)
ソ連兵の暴行がここかしこで起こり、略奪が行われた。
将校までが兵に混じって暴行を働き、略奪するのである。
ある年若い婦人はソ連兵に暴行されたために青酸カリ自殺をした。
このような不幸な人たちは、私が耳にしただけでも十数名に達する。
至るところでマンドリンをかかえたソ連兵が通行人に襲いかかり、
お金、時計、万年筆を奪うのである。
あちこちで自動小銃の音がする。
全く生きた心地がなかった。
不安、恐怖、戦慄が全市を蘞った。

この略奪部隊は、スターリンの命令によって行動する、
軍司令官の指揮を受けない独立の部隊で、監獄や強制労働所から召集された若者が多く、
また、機械技師や電気技師も多数いると、あるソ連兵は私に話してくれた。

・・


 麻山事件
8月10日、虎林線の駅はソ連機の攻撃を受け大部分が不通になった。
1.300人の開拓団は先頭・中央・後尾の三集団になって前進し、
前後をソ連軍に挟まれて攻撃を受けた。
そのうち貝沼団長の率いる中央集団は、敗残日本兵に開拓団の護衛を頼んでも断られ、万事休すと判断して12日、麻山谷で自決することを決意した。
婦女子四百数十人が自決を強いられ、死にきれないものは殺害されたというのである。
のちには
団長は自決か脱出かを各自で決めるようにと述べたが、婦人たちが「私たちを殺して下さい」と次々に訴えるのを目にして、集団自決を選んだ。
「生きのびてソ連や満人の凌辱を受けるより、みんな揃って美しく死ぬことは我々拓士(開拓団員=戦士)の正しい方法かと思う」
壮年男子は、僅か30分か40分の間に自分の妻子や同胞を銃殺し、刺殺した。
人間業ではないと思う、忌むべき軍国思想がこれを為したのではないか。

・・

開拓団には通告せず、開戦後も「関東軍がついているから生業に励め」と放送し、
なおかつ、
都市部に避難してきた彼らの列車輸送を後回しにし、ソ連軍の攻撃に晒したことは
「棄民」に他ならなかった。
関東軍首脳の責任は免れないが、兵士も開拓団も長年の軍国主義教育の結果として
「お国のために死ぬのは本望」
「敵の手にかかるよりは自決する」
という建前と心情に囚われていたことを指摘せざるをえない。

・・・・

 

「ソ連が満州に侵攻した夏」 半藤一利 文芸春秋 1999年発行

「女の子は五百円」

都市の住民はもちろんのこと、
たしかに一時期は辺境の居留民や開拓団も「優越民俗」としての生活を、
国境に近い町や村で享受していたことであろう。
それも関東軍の威力を背景にしてのことであった。
しかし関東軍の虚像は崩れ、惨憺たる敗走がはじまった。
そのとき軍は足弱なかれらをあっさりと見捨ててしまう。
開拓団は満州全土のいたるところで無防備のまま放り出され、さまよい歩かねばならなくなった。
そのかれらをソ連軍が急迫してくる。
さらに現地人が仕返しの意味も含めて匪賊のごとく襲いはじめた。

なんどもなんども暴民や武装匪賊の襲撃ですべてを奪われ、
乞食以下となった日本人の行列に、中国人や朝鮮人が
「粟を買わんか」「とうもろこしはいらんか」
と声をかけてくる。
また幼い子供を連れて歩いているものには、中国人が
「子供をくれ、子をおいてゆけ」とうるさくつきまとい、ついには
「女の子は五百円で買うよ。男の子は三百円だ。」と値段をつけてまでした。
生命を守ってくれる軍隊に逃げられ、包囲され、脱出の望みを絶たれた人びとにとって、
最期に残された自由は死だけであった。
忍耐の限界を超えると、生きていることはむしろ無意味な苦痛となっていく。

 

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