しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

「原爆記念日」軍都・広島のこと

2022年08月06日 | 昭和20年(終戦まで)

昭和20年8月6日までに、岡山・米子・下関・宇部・高松・新居浜・松山・徳島・高知が空襲で焼失していた。
それでも、中国四国最大の都市であり、軍都でもあった広島は丸腰の丸裸であった。
一例として、徐州会戦では日本軍が来るを察して、城内に兵も民も誰もいなかった。

広島では、わかっていて何も行動せず、空襲されるのを待つような状況であったので、一層の大被害となった。

 

(撮影・2018.5.3)


毎年「あやまちはくりかえしません」と宣言しているが、
「逃げも隠れもできなかった」禁止され・許されなかった、というあやまちは、その中に含まれていない。

原爆投下は米軍で、広島市民は被害者という図式には、国家の責任転嫁が含まれている。
市民に「逃げるな」と命令していたのは国家だから。

 

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「父の野戦日記」②軍都広島に着く

2022年08月06日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)

汽車は一路山陽本線を南下しつある。
なつかしの母校(城見小学校)を眺め、小学校の歓送に感謝の涙にむせびつつ、汽車は大門駅に着く。
1時30分。ご両親に最後の別れを告げる。大門駅で両親と別れ
故郷を後に一路汽車は進んだ。
福山にて姉妹と会う。
ああこれで最後。故郷よさらば。
ご両親よ健康に。
姉妹よ健康に。

軍都広島に着く
軍部のプラットホームに着く。 「ちゃのま旅館」に泊まる。
軍都広島の夜は実に美しい。
一夜を明かす。

市内より午後二時、病院船千歳丸に乗り込む。
船は岸を離れた。岸からの○○の声も次第次第に遠のく。
春風は気持ちを良くし僕の笑顔をなぜ通る。 海上のすいきも、ああ船と共に進む。
○○も僕らの眼線より消えていく。 遠く近くにとびかうかもめも,山河もこれが見納めかと思うと、さらば、おさらば母国よ。

昭和13年5月7日
※〇〇は解読不明の文字。

 

宇品の「陸軍桟橋」、ここから父も乗船したのだろう。撮影2016.11.2

・・・・

 

 

徐州会戦
(Wikipedia)
戦争:日中戦争
年月日:1938年4月7日 - 5月19日(6月7日)
場所:江蘇省(徐州)、山東省南部、安徽省、河南省(開封)
結果:日本軍による徐州占領と包囲戦失敗、中国軍による黄河決壊
徐州会戦または徐州作戦、
日本軍は南北から進攻し、5月19日に徐州を占領したが、国民党軍主力を包囲撃滅することはできなかった。
4月7日、大本営は「徐州付近の敵を撃破」することを命じ、不拡大方針は二ヶ月足らずで放棄された。

 

・・・・

 

「近代日本戦争史・3」 奥村房夫 紀伊国屋書店 平成7年発行


徐州会戦のきっかけになったのは、徐州東北の数十キロのところにある台児庄の戦いである。
昭和12年末、徐州北方では第二軍の第十師団が済南を占領し、徐州南方では上海派遣軍の第十三師団が昭和13年1月下旬、北上を始めた。
第二軍は方面軍司令官を通じ大本営に「当面の中国軍が増大したのでこれを撃破したお」と要請した。
大本営はこれを認可したが、それは現地幕領の「決して南へ深く入る作戦でない」という言葉を信じてのことである。

台児庄には中国第二集団軍が待ち構えており、3月下旬から4月上旬にかけて、
南進してきた日本軍第十師団の瀬谷支隊、第五師団の坂本支隊と戦かった。
激戦が続き4月6日、とうとう瀬谷支隊が後退した。
坂本支隊が後退したようだと思い、孤立を恐れて後退を命じた。
ところが坂本支隊は後退していなかった。激戦中であって、その最中に瀬谷支隊が後退したことを知り翌7日坂本支隊も、戦線を離脱したのである。

中国側はこの勝利を、大いに宣伝した。
「この戦闘で敵の死傷二万、歩兵銃一万余、軽機九百五十、戦車四十、歩兵砲七十七門、大砲五十、捕虜無数、敵板垣、磯谷師団の主力は、わがために殲滅された」
と述べた。
これを受け、その後の台児庄の戦況を知って、大本営は4月3日徐州作戦の実施を内定し、
次いで4月7日、その実施を関係方面軍に下命したのである。

しかしこの徐州作戦の実施は、2月16日大本営御前会議で決められた不拡大方針にもとるものであった。

 

 

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