しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

「父の野戦日記」⑤微山湖を渡る

2022年08月12日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)

赤柴部隊へ到着・その2
自分は第二歩兵砲隊付だ。ここにきて”のぼるさん”と会う。 彼は元気でいたが、実に転戦の過去がある。
同郷の人と戦場で会う、出会う、語る。実に嬉しい。 個人のうかがいしれない感じである。
昭和13年5月15日

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「歩兵第十聯隊史」 歩兵第十聯隊史刊行会 山陽新聞社 昭和49年発行


5月18日、聯隊は渡湖を始めた。
敵の交戦意欲は低下しているよう思考される。
敵の射撃は時々部隊の前後に落達し、人馬に若干の損傷を生じた。
翌19日五時十分、主力をもって魏庄に到着した。

 

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微山湖を渡る

(父の話)

船で渡った。
途中からは敵がおるんで降りて歩りぃて渡った。

微山湖は渡りながら止まる。
止まってはまた前進する。
岸(対岸)からは敵が撃ってくる。

岸が近くなると船からおりて、歩く。止まる。
敵に撃つ。そしてまた前進。


逃げたので渡ったが、まだなんぼうかの敵がいた。
というふうにして渡った。

談・2000・7・2 

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「近代日本戦争史・3」 奥村房夫 紀伊国屋書店 平成7年発行

中国軍が逃げ出した。
5月15日未明、中国軍の退却を知った第五師団は、ただちに追撃に移った。
第十師団は、微山湖西岸沿いに前進して、5月19日徐州北方6キロに達した

 

第二軍の第五、第百十四師団は微山湖東方から徐州南方の津浦線に向かい、
第十、第十六師団は徐州方面から西方へ向かった。

かくて徐州会戦は、中国側の黄河の堤防決壊をもって、幕を閉じることになった。

 

徐州会戦の勝利は、国民を歓喜させた。
また徐州会戦の勝利は、政府に支那事変解決への意欲を与えた。
近衛首相は5月26日内閣改造を行い、広田弘毅外相に替えて宇垣一成大将を外相兼拓相とした。

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「岡山県郷土部隊史」  岡山県郷土部隊史刊行会 山陽印刷 昭和41年発行

5月18日第十一中隊は赤柴部隊とともに微山湖を渡り、微山湖西方を南下した。


5月22日列車で徐州に着く。
5月22日徐州西方地区を南下し、負敵を追撃。


磯谷中将が転任し、赤柴連隊長も転任し後任として6月28日
師団長篠崎中将。7月30日毛利連隊長が着任する。

 

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徐州包囲網
我が聯隊は5月12日には徐州包囲網の態勢が整った。
だが敵は、主力を徐州から撤退させるため、台児壮北方地区での抵抗は緩めようとはしなかった。

14日22時左記支隊命令に接した。
速やかに主決戦を徐州西方地区に導き徐州付近の敵の撃滅を企図ず。
これに基き赤柴聯隊長は、15日8時呉寺において右翼隊命令を下達した。
5月15日各隊は転進のため交代準備に忙殺されつつあった。

台児壮の激戦は徐州攻略戦を誘起した。
徐州攻略戦は、終結した敵約50箇団の捕捉撃滅ばかりでなく、津浦線の打通と、漢口作戦への含みをもち、在支の七箇団が起用された。
聯隊は第百十五連隊と交替し、
5月15日暮色漸く迫らんとする20時、呉寺出発棗壮に向かい北進した。
かくて聯隊主力は16日天明までに棗壮に終結を完了した。

16日4時、聯隊は夏鎮に向かう前進を部署した。
軍情報は「微山湖は湖沼にあらずして草地に若干の水あるものと心得るべし」
とあり、
機動船隊は一挙に三千の兵員が渡湖し得るものと判断していた。

 

 

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