しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

果物栽培の歴史

2022年08月01日 | 農業(農作物・家畜)

食べるもので、「日本人がスキヤキを食べ始めたのは明治何年からです」は、
大人の本にも、子どもの本にも載っている。
しかし管理人が牛のスキヤキを初めて食べたのは昭和30年代が終わる頃だった。

いっぽうで「日本人が果物を食べ始めたのは明治何年からです」は、
大人の本にも、小どもの本にも、ほとんど載っていない。

牛肉以上に人々の日々の食べ物として重要度が高いと思うが、なぜ書かれないのだろう?

 


・・・・

「物語・食の文化」 北岡正三郎 中公新書  2011年発行

果物

わが国で縄文時代に食用された果物はヤマモモ(山桃)、ヤマブドウ(山葡萄)、
キイチゴ(木苺)などだけで、
弥生時代になって、
モモ、スモモ、ウメ、ナシ、カキ、ブミ、ビワなどが大陸から伝来した。
縄文時代、クリ、クルミを含む堅果が多量に食用されたが、これらは主食であった。

中世以降主食、副食以外の嗜好食品または間食用の食品として、
菓子と同様の位置にあり、江戸時代には水菓子と呼ばれた。

現代ではデザートとしての食事の一部分を占め、菓子とは違った役割をもっている。
古代ローマでは果物は嗜好品ではなく、食膳の重要な食品で、肉、魚、野菜などと同列の扱いであった。

20世紀には果汁の利用がアメリカで盛んになり、缶詰、瓶詰、紙パック詰が大量生産されている。
香水、石鹸、化粧品、芳香剤にアロマが利用される。

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「日本の農業4果物をそだてる」 長谷川美典 岩崎書店 2010年発行

果樹の話


庭先果樹という言葉もあるように、日本では果物は、古くから農家の庭先などでつくられていました。
商品として栽培されるようになったのは江戸時代から明治時代にかけてです。
明治時代には、外国から新しい品種が入り、品質も向上し、生産量が増えていきました。
第二次世界大戦で一時減少しましたが、昭和35年頃から急激に増え、昭和50年には667万トンに達しました。
しかし農産物の自由化により輸入が増え、その後毎年減りつづけ平成19年(2007)には約350万トンになっています。
とくに温州ミカンの減少が著しい。

生産量は減っていますが、消費量は少しづつ増え平成19年(2007)では約850万トンになっています。
このうち外国の果樹が約60%を占めています。

 

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「岡山の果物」  三宅忠一 岡山文庫 昭和43年発行

明治30年代岡山県は桃を中心として質においても、量においても、全国に冠絶した果物の生産地として自他ともに許した。
そのゆえんはとりもなおさず優秀な先駆者たちが全霊を捧げ、身命を賭した努力によって栽培術を研究し、後進を誘導し、切磋琢磨の結果、技術的に卓越していたことにほかならない。
今次第二次大戦は面積の半減、園の荒廃によって当業の基本を大きく動揺させた。


文久2年頃旧児島郡で栽培。
梨は明治30年頃に発生した赤星病で減退が著しく、防除法がなかった。
葡萄への更新が行われた。
防除法は大正以降に属する。
昭和13年に赤星病・黒星病の防除方法が確立し、やや安定した栽培が続けられた。

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文久2年児島郡で栽培。
岡山の果物の代表である桃は天津、上海両種の導入によって一大革命が起こった。
これらを枢軸として、明治30年頃新しい品種があいついで発見され、6月から9月まで随時成熟出荷を可能とし、経営上に一大進歩をもたらした。
全県で最高に達したのは大正4年の111万本。
終戦の昭和20年には果樹園整理、諸資材の不如意などによって12.700本に激減したが、
生産量は栽培方法の向上で極端な低下は免れた。
終戦後、全国的な増殖熱と肥資材の自由化、諸統制の廃止委によって急激な増産が行われた。

本県の発見された新品種
明治28年長尾円澄氏は『新山天津』と命名。
昭和2年大久保重五郎氏は『白桃』『大久保』を発見。

 

葡萄
明治10年頃児島郡東児で栽培。
明治20年前後、黒痘病などが蔓延、惨害を受けた。
防除法がないため廃園になった。
葡萄再興の動機は、
水田作への移行と、
キャンベルアーリーの導入であろう。

キャンベルアーリー
米国オハイオ州で明治24年交配して得たもので、本県へは明治30年前後の記録が残っている。
ネオマスカット
上道郡広田盛正氏が大正14年交配によって育成、昭和8年公表された新品種。


みかん
明治13年、小田郡広浜村渡辺淳一郎氏は萩から夏柑一本を初導入し、その後兵庫県から三百本購入栽培。
明治23年、宮内省から御用仰せ付けられ献上した。

無花果
明治30年、横井村蜂谷筆吉氏は呼松から購入栽培。
大正2年、小田郡城見村の生産12.000〆、内乾菓6.000〆供用せり。
初植は不明であるがかなり古くから栽培していたと思料される。

枇杷
明治41年、旧児島郡赤崎村中桐梅太郎氏は長崎県茂木村から茂木枇杷10本を購入栽培し逐次増殖した。

苹果(りんご)
明治42年、小田郡新山村、長尾円澄氏は紅魁、祝、国光三種を一反歩栽培。

 

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小田郡新山村の農作物

2022年08月01日 | 大正

木山捷平が見た桃畑は、桃栽培が頂点の時代で、おそらく現代人が想像できない見事な光景を見ていたことになる。

大正4年の栽培本数は、昭和20年にはおよそ1/10まで減ってしまった。

戦後の新山は「桃」よりも「柿」の印象がずっと強い。

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「続 木山捷平研究」 定金恒次 遥南三友社 平成26年発行

木山捷平は明治37年、岡山県小田郡新山村山口に生まれた。
新山村は山陽本線笠岡駅から北へ約10キロ、尾坂川という小さな川を挟む山あいに開けた戸数450,人口2.300の農村であった。
当時の村人にとっては、笠岡は「米を売りに行ったり、肥料や日用品を買いに行ったり」する町であって、子供にとっては「一つの夢の国であった」(尋三の春)のである。

捷平は往時の村を回想して、
「私が幼い時分、私たちの村は中国第一の桃の村と称せられた。
陽春四月が来ると、村は桃の花で埋まった。
切目山、坊山、長尾山、天神山と、村の田圃をめぐった山とは名ばかりの丘は、
ことごとく桃の花で包まれた。
しかし、桃の花が春の空でむせんでいたのはもうぼんぼり色の昔になってしまった。
今では私たちの村に桃の木はほとんどなくなった。
桃をぶち切っては梅を植え、
梅をほりかえしては桑にかえ、麦を撒く。
そんなことを繰り返しながら、村人はあえぎにあえぎ、もがきにもがいている。」
(『野』昭和4年5月)と述べている。
まさしく疲弊していく農村、貧苦にあえぐ農民たちの現実の姿を直視するのである。

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「岡山の果物」  三宅忠一 岡山文庫 昭和43年発行

(新山の五花園)

 


文久2年児島郡で栽培。
岡山の果物の代表である桃は天津、上海両種の導入によって一大革命が起こった。
これらを枢軸として、明治30年頃新しい品種があいついで発見され、6月から9月まで随時成熟出荷を可能とし、経営上に一大進歩をもたらした。
全県で最高に達したのは大正4年の111万本。
終戦の昭和20年には果樹園整理、諸資材の不如意などによって12.700本に激減したが、
生産量は栽培方法の向上で極端な低下は免れた。
終戦後、全国的な増殖熱と肥資材の自由化、諸統制の廃止委によって急激な増産が行われた。

本県の発見された新品種
明治28年長尾円澄氏は『新山天津』と命名。
昭和2年大久保重五郎氏は『白桃』『大久保』を発見。他。

 

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松浦岩蔵氏の葡萄経営

2022年08月01日 | 農業(農作物・家畜)

父が若い頃、果物栽培の先生として、教えを請いに伺っていた”岩蔵先生”の記事があったので転記して残す。

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「岡山の果物」  三宅忠一 岡山文庫 昭和43年発行

松浦岩蔵氏の葡萄経営

松浦岩蔵氏は明治2年城見村大冝に生まれ、
明治29年頃日清戦争除隊後全家を携えて転居。
氏は日清・北清・日露の三役に従軍したが、
名を辱めぬ体躯と精神力の持ち主で、
かねて新渡戸稲造博士を崇拝し、その著書中に
「人間は一生を通じて地球の表面に痕跡を遺すことに務めよ」
にいたく共鳴して開拓を決意したのであった。

 

 

在隊中深夜人知れず農書を携え、除隊後国繁に移籍。
細道さえない不毛の山麓から海岸に至る約二町歩を開墾。
葡萄栽培に特に熱意を傾け、大正天皇の御登極の際、
葡萄献納の光栄に浴した。
園の一側に枇杷を移植して、潮風害防ぐ。
労力節減のため葡萄棚を高めた。
明治28年海岸に荷揚げ場を構築して、果物の集荷はほとんど舟艇を駆使して、
帰路必ず福山・笠岡・金浦より塵埃、紡績屑を搬入利用することを園の生命成りとし、
選定屑、落ち葉、籾殻をもって燻炭製造技術を設け、加里給源として重用し、
当代すでに全面施肥、腐植の重要性を身をもって垂範していた。

床下を利用して貯蔵庫を作り、邸内空地は葡萄をもって埋め、小川の上に鶏舎を建てて塀を兼ね、除虫菊栽培の端緒を拓き勧説に務め、
犬をもって園番に任ぜしめ、用便に当たっては止め金を伸ばし寸暇を惜しむに至っては、
その透徹した経営構造と実行力に衆人等しく驚嘆するところである。

また氏は生前、
もしこの事業成功の暁は全財産を四分し、
一は学校、一は旦那寺へ、一は青年団等の団体に提供し、
残りの一をもって一家を支えるのだ、とさえもらしていたと伝えられる。

昭和11年、大隅義一氏は果物月刊誌上に
「私の見た園芸界の傑物故松浦岩蔵君」と題して、
「千軍万馬の中を馳駆した英傑も病魔の強敵に勝つあたわず、
悲風凄然、偉業を遺して巨星墜つ、大正十四年十月十四日、享年五十有七、
実に本県園芸界にとって取返しのつかぬ大損失である」と述べている。

・・・・

(父の話)

 

茂平・国繁「不老園」のこと

「不老園」が果物をつくりょうた。
あの頃は,みんな果物をつくりょうらなんだ。

梨をつくりょうた。

 

・・・・・・

個人が主作りょうた。
市場に出すのに名前が要った。

戦争まで続いた。戦後は番号みたいなのになった。

長いこと茂平では「不老園」が果物の代表じゃった。


「西渓園」が干しいちじくをはじめた。

農園は30なんぼあってもだしょうらん名前だけのもあった。

大正~昭和初期の頃


2001年7月14日

・・・・・・

「岡山の果物」  三宅忠一 岡山文庫 昭和43年発行


隣保共同組織の結成

桃および梨を中核とする果樹栽培の意欲は年とともに高まり、
生産も逐年増大して地場消費、近郊消費での需要がこれに伴わず、
明治30年ごろから阪神など県外に市場を求めた。

本県果樹栽培の殆どが農家の副業で、僅々1~2反歩に充たぬ経営でも、
それぞれ園名を採用したことは奇異とさえ感じられるが、
当時としては一たび市場で商品を競う場合、何園、何印の呼称表示は取り扱いの便宜上からも必緊であった。

かく個人間の競争時代を経て、産地間の競争に移り、やがて生産府県の競争段階を迎えた。

 

・・・

 

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