しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

8月9日に戦争が始った国③拓け満蒙!行け満州へ!

2022年08月10日 | 昭和20年(終戦まで)

満州に行けばいいことがある。
労働者に仕事はいくらでもある。
農民は広い土地をもらえる。といわれて

それを実行したら、たしかに都市労働者には豊かな暮らしがあり、
農民は大規模農園を営むことが出来た。

ところが、
異国や極寒の冬にもやっと慣れたころ、戦争が始まった。
そして棄てられた。

・・・

 

「満州開拓団の真実」  小林弘忠 七つ森書店 2017年発行

満州行きを勧誘するポスターが、頻繁に全国の農村に貼られるようになったのは、
昭和13年から14年にかけてであった。
「満州に行けば必ず20町歩の地主になれる」
との心をそそる文句もあった。
そのうえ補助金がもらえるというのだ。
せいぜい6~7反歩しかない小作農家のほとんどが、
単位の違う田畑の広大さに目を見張り、いっそ花を咲かせに大陸へ旅立ちたいと、
胸を波打たせた。

関東軍の「移民方策案」
満州支配の関東軍の意図は、満州を新国家と位置づけ、入植によって
帝国日本の「生命線」を確保する。
満州移民は日本の「国防上最重要事項」であるとし、
移民は入植者であると同時に、対ソ防衛の軍事的補助要員であり、
日本帝国主義の先兵の一員である。
昭和7年試験的に移民団が募集され、集まった423人が出立している。これが第一次試験移民といわれる人たちである。
国策として正式に満蒙移民の推進がはかられたのは、2.26事件のあった昭和11年、
広田内閣の時である。

 

 

ソ連兵来る
8月9日、吉林省にある長野県からの「高社郷開拓団」の場合。
10日ぶんの食糧をもって宝清まで避難せよとの指令が出た。
団の協議は「ソ連軍と戦い、団を死守する。敗れれば自決。婦女子は最初から自決」、結論はそういうことだった。
自決用に新しくカミソリが渡された。
青酸カリは、診療所の医師が用意していたが、古くなったためか、犬が死なないことがわかったので使わないことにした。
苦しまないで、ほぼ確実に死ねるのは銃殺である。
銃は大切であった。しかし弾がなくなれば、死ぬこともできないので、弾はもっと貴重であった。
弾丸は、相手を倒すより日本人、しかも同郷人の自決を幇助する殺害の必須用具に変わっていた。
解団式が行われた。

8月15日
連合軍はマッカーサー元帥を連合国最高司令長官に任命。
マッカーサーは重慶放送を通じて
「なるべく速やかに戦闘行為を停止するため・・」と大本営に向けてメッセージを送った。
翌16日「日本軍の戦闘停止を命令する」。
15日には、トルーマンが全軍に戦闘停止命令を出し、イギリス、インドも停止を発令した。
ソ連軍は15日以降になっても戦闘を停止せず、満州では日本側も抵抗した。
満州の中心部、新京ではこの日から無政府状態となり、各所に銃声が響き、
中国人による略奪も相ついで、市民の多くは公共の建物に避難するのが精いっぱいだった。

8月20日以降
ザバイカル方面軍の先遣隊が日本軍総司令部のある新京入りした。
連日数百人単位で続々とやってきた。
通信網が遮断されたため、総司令部と部隊間の連絡手段がなくなり、これより
「停戦も武装解除も無統制のバラバラとなって、各地で混乱が起こった」と、
『満ソ殉難記』は記す。
ソ連軍が治安を維持するとの口実で、傍若無人のソ連兵による略奪、暴行が相つぎ、
とくに女性が大きな災難を被った。
ソ連軍兵の暴威、暴状はやむことがないどころか過疎度を加え、
兵隊たちが「野獣的」になった例は、枚挙にいとまない。
ソ連兵は群れをなして、都市部の日本人家庭、事務所に侵入し、
手当たり次第に金品を略奪した。
抵抗すれば射殺し、集団的婦女暴行も堂々と行われたため、
女性は頭を丸め、顔に墨を塗ったりして男性を装ったが胸をさわられて助成と分かり、集団でいたぶられた。
吉林省敦化の日満パルプ会社の社宅では、男子と女性社員が分離され、170人の婦女子社員を監禁して連日暴行。
23人の女子社員が青酸カリで自殺した。(敦化事件)

 

(つづく)

 

 

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8月9日に戦争が始った国②「満州開拓回顧誌」(芳井町)

2022年08月10日 | 昭和20年(終戦まで)

芳井開拓団は昭和19年2月入植、3月種蒔き、そして
昭和20年5月、根こそぎ動員、8月9日に戦争が始まった。

・・・・



「満州開拓回顧誌」  小谷哲雄 ぎょうせい 平成3年発行

 

開拓団の編成
団長以下5人の幹部指導員を当局に届けを出し、
同時に所定の訓練所に入所する。
茨城県内浦の満蒙開拓訓練所に入所された。
幹部は内浦の訓練所へ、
団員は芳井国民学校に集合し、芳井分村開拓団の編成をみた。
昭和19年1月末であった。

 

満州は元来、清朝発祥の地であった。
清朝が中国大陸を支配するようになってからは、異民族の流入を許さず封禁令をだしたこともあった。
しかしその後、ロシア人の東方進出が激しくなってくると、漢民族の移住を奨励するようになる。
日清戦争後、ロシア宰相ウイッテは、ロシア人60万人を北満に移住させる計画を企てた。
北京政府は5ヶ年計画で、300万人の移民を黒竜江省方面へ送る計画を立てた。
漢民族の満州奥地への進出が盛んになったのは、昭和初期であったと聞く。
漢民族につづいて、移民の多かったのは、朝鮮民族で、昭和12年頃100万人とも120万人ともいわれる。
漢鮮両民族の進出に対し、満州事変以後事情は変わり、昭和7年満州国が誕生すると、
関東軍の手により全満に治安工作がすすみ、北満の穀倉地帯が新たに移住地として開放された。
20ヶ年100万戸の移住が着々と進捗することになった。

 


入植式
幹部は内原訓練所の厳しい錬成を終え、新京を経て現地入りし、
先遣隊も昭和19年2月郷土を出発して、2月8日現地に到着幹部と合流した。
2月11日、紀元節の日、役所、現地人代表を招いて、形ばかりの入植式を挙行した。
五族協和の先兵となり安住の楽土満州国の平和の為に、第二の故郷満州に骨を埋める覚悟で、開拓の大事業に挺身しよう、と語り合ったものである。

開拓は開墾からというのが常識であったのに、私共の入植地はすべて既耕地であった。
想像したような苦労もなく原住民との折り合いもよく、平穏な生活であったが、
今にして思うと、
開拓団は農地を侵略によって入植したので、大反撃を受けたのではなかろうか。

・・・・・・・

「満州開拓団の真実」  小林弘忠 七つ森書店 2017年発行
入植地を既開墾地にすると、中国、満州人ら現地住民と摩擦を生じさせるので、
なるべく未墾地に入植させ、早急に広大な土地を確保するとされたが、
時代がすすむにつれて、既開墾地も侵害し、
中国、満州人を駆逐せざるを得ない状態となった。
最初、満州は寒冷地なので不可耕地が多く、農業に適さないとの反対論もあったのだが、
切羽詰まった国内事情では、強引ともいえる力で推進した。

・・・・・・

現地人の家屋は、寒さに耐えるようになっているので、ガラス戸も二重にできているだけに、空気も悪く家のなかにいると頭痛がするので、できるだけ外に出るよう心掛けた。
地下は相当凍結しているので、作業は難航した。
振り下ろす鍬もかちかち音をたて、掘り起しに随分苦労が多かった。
阜新市とは170キロも離れた街で、馬車で行くと途中で宿泊しなければならない。
往復することは大変であった。

借宿舎は城内にあって、満州特有の強固な土塁をめぐらし、東西南北に大門があり、
城内から約4キロの所に団の本部があり、開拓地の中央に位置し、開拓地はなだらかな丘になっている。
芳井町のように、山坂の多いところを生活の本拠とした者にとっては、
見るもの聞くもの大きな驚きであった。

 

 

春になれば本隊が着く、家族も迎える、その準備に忙しい日々であった。
開拓団の生活は主食等満拓公社から送られてきた。
味もよく主食に事欠くことはなかった。
焼酎・砂糖・衣類・煙草等、
当時内地ではないものが何でも豊富で、うれしいやら有難いやらの連続であった。
農機具が届く、馬鈴薯の種も大量に着荷する。
何から何まで合理的になっていることは、さすが国策としての満州開拓だなというのが実感であった。
服・ぼうし・巻脚絆・地下足袋の類まで一揃の配給があった。
その頃内地では手にはいらないものばかりで、勿体ないという一語につきる毎日であった。

 

現地でも20歳の徴兵検査を受け、合格者は入営させられるし、赤紙での召集もあったが、平穏な日がつづいた。
団員一同の努力は米・雑穀共増収を続け、完納出荷、光明が見えだした時、
即ち、昭和20年5月太平洋戦争は、遂に終戦間際までには団員の9割まで応召し、
老人を残すだけで、本部事務も停滞の止むなきにいたった。
遂に8月11日、第二の故郷を放棄しての避難は、悪天候つづきで、
病気・栄養失調・疲労と死亡者の続出は想像にあまりある苦難の道と言えよう。

 

(つづく)

 

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