しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

「父の野戦日記」⑥武漢攻略戦へ

2022年08月13日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)

【父の野戦日記】


ぬかるみを歩く
2~3日の雨が降る。
本日も雨である。 急に激しくなってきた。 予定のとおり六時出発だ。
雨はますます降り、我々は身も濡れ、濡れ鼠のようになって、一路目的地へと進む。 足はぬかるみにとおり、土は身体につく。

「たいてい」の二の舞だ。ますます激しい雨。休みつつすすむ。 実に戦場ならではの光景。
○○部落にて

昭和13年9月20日

 


・・・

 

「歩兵第十聯隊史」 歩兵第十聯隊史刊行会 昭和49年発行

 

漢口作戦

漢口進撃命令が下ったのは昭和13年8月22日であった。

漢口進撃作戦に従事した中支那派遣軍は、総兵力30万をこえる大軍団であった。

我軍の作戦進路は四路に分かれ、

我が第二軍は大別山の北麓に沿って信陽に進攻し漢口北方へ迂回するものであった。

8月27日、第十、第十三師団は金橋、椿樹嵩の線より行動を開始した。

8月28日、師団は六安を占領した。

道路は予想の如く不良で、尚且つ敵の破壊甚だしく車両部隊の追及は困難を極めた。

 

・・・

「近代日本戦争史3」 奥村房雄 紀伊国屋書店 平成7年発行

徐州会戦の成果

徐州会戦は北支方面軍と中支那派遣軍との間で、指揮関係のない,協同という形で行われた。
準備段階から両者を統制し、かつ作戦終了後の後始末まで同一指揮で律することに問題があった。
徐州会戦の勝利は、国民を歓喜させた。
政府に支那事変解決への意欲を与えた。
近衛首相は広田弘毅外相に替えて、宇垣一成大将を外相とした。
宇垣新外相の登場は、長期戦化の様相を呈してきた支那事変に、なんらかの局面打開の道を、開くのではないかという期待を抱かせた。

 

漢口作戦への転移

大本営は徐州会戦の間、漢口作戦の準備も進めた。
その際問題となったのは漢口作戦と広東作戦を同時に実施できないかということである。
二つの作戦の同時実施は無理のようであった、漢口作戦が先となった。
昭和13年6月23日、政府は声明を出し、
「支那事変は徐州陥落により戦局の一大進展をみたが、なお官民一体となって長期持久の戦時体制を確立して、時局に対処しなければならない」と述べた。
7月4日武漢攻略戦の態勢が整えられた。
中支那派遣軍は、畑俊六大将、四箇師団。
第二軍司令官は、東久邇宮稔彦中将、四箇師団。
第十一軍司令官は、岡村寧次中将、五箇半師団。

第二軍第十師団(抜粋)
第二軍の諸隊は7月中旬蘆州付近への集中を開始した。
第十師団は津浦線で蚌捍まできて、淮河をわたり、後徒歩で100キロ以上の道を蘆州に向かった。
8月26日蘆州付近に着いたが、その間、道路は不良で、そのうえコレラが発生した。
ここから西進したが、ここでも道路は道路は徹底的に破壊されていた。
しかも炎熱下の前進である。
第十師団は28日六安に着いた。

昭和13年8月22日、大本営は武漢攻略命令を下命した。
9月7日、御前会議において広東作戦の実施が決定された。

第二軍の西進
大別山北麓の第二軍は、道路の破壊が甚だしく、自動車による補給は困難と思われた。
このため糧食、弾薬等は駄馬運搬あるいは個人携行とし、
なるべく多くを持って、迅速に光州まで前進することにした。
8月29日から9月1日までは晴天続きであった。
炎熱甚だしく、携行糧食の負担が重い。
9月2日第十師団の一部、商城方向に突進させ、富金山の中国軍を背後から脅威した。
第十師団は9月7日固始を占領、次いで17日光州を攻略した。
光州、商城攻略後どうするかについて、第二軍は
第三・第十師団をもって速やかに信陽方面の中国軍を撃滅し、
第十三・十六師団をもって、大別山を突破するという方針を固めた。

 

・・・

 

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「父の野戦日記」⑤微山湖を渡る

2022年08月12日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)

赤柴部隊へ到着・その2
自分は第二歩兵砲隊付だ。ここにきて”のぼるさん”と会う。 彼は元気でいたが、実に転戦の過去がある。
同郷の人と戦場で会う、出会う、語る。実に嬉しい。 個人のうかがいしれない感じである。
昭和13年5月15日

・・・


「歩兵第十聯隊史」 歩兵第十聯隊史刊行会 山陽新聞社 昭和49年発行


5月18日、聯隊は渡湖を始めた。
敵の交戦意欲は低下しているよう思考される。
敵の射撃は時々部隊の前後に落達し、人馬に若干の損傷を生じた。
翌19日五時十分、主力をもって魏庄に到着した。

 

・・・・

 


・・・・

微山湖を渡る

(父の話)

船で渡った。
途中からは敵がおるんで降りて歩りぃて渡った。

微山湖は渡りながら止まる。
止まってはまた前進する。
岸(対岸)からは敵が撃ってくる。

岸が近くなると船からおりて、歩く。止まる。
敵に撃つ。そしてまた前進。


逃げたので渡ったが、まだなんぼうかの敵がいた。
というふうにして渡った。

談・2000・7・2 

・・・・

「近代日本戦争史・3」 奥村房夫 紀伊国屋書店 平成7年発行

中国軍が逃げ出した。
5月15日未明、中国軍の退却を知った第五師団は、ただちに追撃に移った。
第十師団は、微山湖西岸沿いに前進して、5月19日徐州北方6キロに達した

 

第二軍の第五、第百十四師団は微山湖東方から徐州南方の津浦線に向かい、
第十、第十六師団は徐州方面から西方へ向かった。

かくて徐州会戦は、中国側の黄河の堤防決壊をもって、幕を閉じることになった。

 

徐州会戦の勝利は、国民を歓喜させた。
また徐州会戦の勝利は、政府に支那事変解決への意欲を与えた。
近衛首相は5月26日内閣改造を行い、広田弘毅外相に替えて宇垣一成大将を外相兼拓相とした。

・・・


 

「岡山県郷土部隊史」  岡山県郷土部隊史刊行会 山陽印刷 昭和41年発行

5月18日第十一中隊は赤柴部隊とともに微山湖を渡り、微山湖西方を南下した。


5月22日列車で徐州に着く。
5月22日徐州西方地区を南下し、負敵を追撃。


磯谷中将が転任し、赤柴連隊長も転任し後任として6月28日
師団長篠崎中将。7月30日毛利連隊長が着任する。

 

・・・・

徐州包囲網
我が聯隊は5月12日には徐州包囲網の態勢が整った。
だが敵は、主力を徐州から撤退させるため、台児壮北方地区での抵抗は緩めようとはしなかった。

14日22時左記支隊命令に接した。
速やかに主決戦を徐州西方地区に導き徐州付近の敵の撃滅を企図ず。
これに基き赤柴聯隊長は、15日8時呉寺において右翼隊命令を下達した。
5月15日各隊は転進のため交代準備に忙殺されつつあった。

台児壮の激戦は徐州攻略戦を誘起した。
徐州攻略戦は、終結した敵約50箇団の捕捉撃滅ばかりでなく、津浦線の打通と、漢口作戦への含みをもち、在支の七箇団が起用された。
聯隊は第百十五連隊と交替し、
5月15日暮色漸く迫らんとする20時、呉寺出発棗壮に向かい北進した。
かくて聯隊主力は16日天明までに棗壮に終結を完了した。

16日4時、聯隊は夏鎮に向かう前進を部署した。
軍情報は「微山湖は湖沼にあらずして草地に若干の水あるものと心得るべし」
とあり、
機動船隊は一挙に三千の兵員が渡湖し得るものと判断していた。

 

 

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「父の野戦日記」④赤柴連隊長へ着任の挨拶をする(昭和13年5月15日)

2022年08月11日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)

黄河を渡り済南へ
途中、同輩が苦心して得た○○駅、○○駅を戦跡を眺めながら渡る。 銃弾砲撃した跡を眺めつつ通過していく。 各駅は警備の兵が我々の○○を守ってくれる。 日中は大変暖かくなってきた。 広漠たる地平線、遥かなる地平線を汽車は、一路大陸へ大陸へ。 部落には日章旗と五色がひるがえっている。 農夫もみうけられた。 子供たちは鉄道付近にきたりて、「バンザイ」「バンザイ」と叫びつつ、僕らを歓迎してくれる。 午後6時30分。東洋の大河・黄河の鉄橋にとおり着く。
その鉄道は陰もなく破壊され、むしろなにを運ぶ・・・・無事汽車は通過し、午後7時汽車は済南に着いた。
【父の談話】2001年8月6日(破壊された黄河鉄橋では)船を繋いで、その上にレールを敷いとった。 爆破しっしもおて、鉄道があったのが。 船は浮きになるんで、その上に柱を繋ぃで、鉄橋にしとった。

済南に着く
済南は山東の都だ。建設物が勇壮で、実に平穏だ。
しかし空爆のあと、砲爆の跡、銃撃の跡が見える。
ごうけん部落の××にて合掌する。

赤柴部隊へ
遠くのほうで銃声・砲声が聞こえる。しかし、待ちに待った戦場へいよいよ到着したのだ。
戦車・装甲車の車輪の音。 自動車のひびき、ごうごうたる○○本部だ。
本日はいよいよ隊へ配属されたのだ。 自動車にて一路戦線へ、戦線へと進む。
途中の戦跡、戦傷者の輸送。 各隊のものものしい警備。 顔、みな悲壮な決心がうかがわれた。
無事午後1時30分、赤柴部隊本部へ到着する。ああ戦場の柳の木、しょうようは散り倒れ、穴も各所に見受けられ、時々は、敵の不発の手のやつが空をじっとにらんでいる。 実に物騒なところだ。
流弾が地上をかすめる。 兵は皆、鉄帽をかぶり家の内や、穴の中に潜り込んでいる。いよいよ、第一戦だなあ、でも赤柴隊長殿の英姿をあおぎてわれ等も元気をだす。
言葉をいただき我等衛生兵10名はそれぞれ各隊へ配属される。

 

「父の野戦日記」昭和13年5月15日

 


【父の談話】2001年8月5日
父の談話
そりゃ、行ったときにゃ皆。穴ん中へおったんじゃけいのう。 穴の中から出てきて挨拶。せぃが済んだらまた穴ん中へ。

・・・

「歩兵第十聯隊史」 歩兵第十聯隊史刊行会 山陽新聞社 昭和49年発行

昭和13年5月14日瀬谷支隊命令
一、徐州方面の敵軍は動揺、軍は速やかに主決戦を徐州西方地区に導き敵の撃滅を図る。
二、支隊は逐次第百十四師団と交代する。
これに基き赤柴聯隊長は15日、要旨命令を出した。
斯くて、5月15日各隊は転進のための交代準備に忙殺されつつあった。

 

・・・


「近代日本戦争史・3」 奥村房夫 紀伊国屋書店 平成7年発行
 
徐州正面では、第二軍の第五師団、第十師団が中国軍を十分に牽制、抑留した。
5月6日派遣軍司令官畑俊六は、南京周辺の警備に任じていた第三師団軍にも、徐州作戦への参加を命じた。
台児庄正面では、牽制・拘留に任じていた第十師団が、その任務を第百十四師団に譲って嶂県付近に集結し、その先遣隊は5月16日、微山湖を渡って西岸に進出した。

 

・・・

「歩兵第十聯隊史」 歩兵第十聯隊史刊行会 山陽新聞社 昭和49年発行

我が聯隊は敵と近く相対峠し、大いなる犠牲を払わずんば到底戦闘を進捗せしむるに能わず。
戦線は膠着し戦闘は遂に交綬状態に陥った。
支隊は現在の戦線を堅固に確保し次期作戦を準備せんと5月4日から14日に至った。

 

・・・・

 

 

 

 

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「父の野戦日記」③宇品~塘沽~天津

2022年08月11日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)

洋上にて
海峡にそって、ああ船はすべり目的地へ、目的地へと玄海灘をすすむ。

若者の○○は、なにものぞ。 洋上にでて、水平線場で夕陽を拝む。さざなみのように実にうつくしい。

船は洋上の彼方へ彼方へと進んだ。


昭和13年5月10日(洋上にて)

タンクーへ上陸
海上無事、タンクーへと上陸だ。大陸第一歩の喚声やいかん。
我が先輩らが血を流して得た土地。
もくもくと点在する民家も倒れ、砲撃の激しさを語っている。
ところどころに残る砲弾の跡。だが支那の人家は皆、土の壁だ。
もぐらか,蟻のありかのようだ。
支那保安隊の警察団のものものしい警備。

一路天津に向かう
タンクーより汽車に乗り、一路天津に向かう。
車窓に映る大陸の景。広漠たる平野だ。
まったくぞくぞくする水平線の各戦跡の車窓。
我等は元気で天津に着いた。

天津
天津は平穏だ。この土地が敵国の土地か。 多くの兵士でいっぱいだ。
 各機関は思うように運転している。
 支那特有のチャーチャンが多く、シャーシャンを見る。 (←チャーチャンまたはショーシャンは不明・未確認)
午後7時天津を出発済南に向かう。


昭和13年5月12日

 

・・・・

 

 

・・・・


「近代日本戦争史・3」 奥村房夫 紀伊国屋書店 平成7年発行

徐州会戦の経過

徐州作戦の実施が決まると、北支方面軍は第二軍に、
第百十四師団と第十六師団を配属し第二軍の戦力を強化した。
第十師団の攻撃は当初順調に進展し、四月末まで台児庄東方10キロまで進んだ。
だがその後中国軍の抵抗は激しく、師団は苦戦した。
第五師団も中国軍の反撃を受けて、五月にはいっても両師団の苦戦はつづき、
状況は楽観を許さなかった。

・・・・

 

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8月9日に戦争が始った国④開戦後、日本人は即棄民

2022年08月11日 | 昭和20年(終戦まで)

当時・吉林市に住んでいたおば(父の妹)の話

日本人は今まで「タイタイ」、大将でおったのが。
そりゃぁみじめなもん。
戦争で負けたらもう、社宅へ向かって石は投げるし。
暴動みたいに、だーっと家の中にはいり衣類は取られるし。
天皇の玉音を聞いたら、もう日本人は全員殺される。

ロシアが明日やってくる。ロ坊主(ろぼうず)ゆうてようた。
ロシアがきたら、女性は全員出ていったらいけん。
頭は坊主にして、顔に墨を塗って。
社宅をくりぬいて、一部屋にして。
畳をあげて下に隠りょうた。
鈴をつけて、鈴が鳴ったら「女はみんな隠れろ。」
床の下に隠りょうた。
あるものは全部盗られた。
腕時計まで取られた。

談・2002・4・30
(おばは翌年、葫蘆島から帰還。その間に一子を亡くした)

 

・・・・

 

8月9日に戦争が始った国④「日ソ戦争 1945年8月」   富田武 みすず書房 2020年発行

吉林省新京の占領軍

(首都・新京の外交官の回想記)
ソ連兵の暴行がここかしこで起こり、略奪が行われた。
将校までが兵に混じって暴行を働き、略奪するのである。
ある年若い婦人はソ連兵に暴行されたために青酸カリ自殺をした。
このような不幸な人たちは、私が耳にしただけでも十数名に達する。
至るところでマンドリンをかかえたソ連兵が通行人に襲いかかり、
お金、時計、万年筆を奪うのである。
あちこちで自動小銃の音がする。
全く生きた心地がなかった。
不安、恐怖、戦慄が全市を蘞った。

この略奪部隊は、スターリンの命令によって行動する、
軍司令官の指揮を受けない独立の部隊で、監獄や強制労働所から召集された若者が多く、
また、機械技師や電気技師も多数いると、あるソ連兵は私に話してくれた。

・・


 麻山事件
8月10日、虎林線の駅はソ連機の攻撃を受け大部分が不通になった。
1.300人の開拓団は先頭・中央・後尾の三集団になって前進し、
前後をソ連軍に挟まれて攻撃を受けた。
そのうち貝沼団長の率いる中央集団は、敗残日本兵に開拓団の護衛を頼んでも断られ、万事休すと判断して12日、麻山谷で自決することを決意した。
婦女子四百数十人が自決を強いられ、死にきれないものは殺害されたというのである。
のちには
団長は自決か脱出かを各自で決めるようにと述べたが、婦人たちが「私たちを殺して下さい」と次々に訴えるのを目にして、集団自決を選んだ。
「生きのびてソ連や満人の凌辱を受けるより、みんな揃って美しく死ぬことは我々拓士(開拓団員=戦士)の正しい方法かと思う」
壮年男子は、僅か30分か40分の間に自分の妻子や同胞を銃殺し、刺殺した。
人間業ではないと思う、忌むべき軍国思想がこれを為したのではないか。

・・

開拓団には通告せず、開戦後も「関東軍がついているから生業に励め」と放送し、
なおかつ、
都市部に避難してきた彼らの列車輸送を後回しにし、ソ連軍の攻撃に晒したことは
「棄民」に他ならなかった。
関東軍首脳の責任は免れないが、兵士も開拓団も長年の軍国主義教育の結果として
「お国のために死ぬのは本望」
「敵の手にかかるよりは自決する」
という建前と心情に囚われていたことを指摘せざるをえない。

・・・・

 

「ソ連が満州に侵攻した夏」 半藤一利 文芸春秋 1999年発行

「女の子は五百円」

都市の住民はもちろんのこと、
たしかに一時期は辺境の居留民や開拓団も「優越民俗」としての生活を、
国境に近い町や村で享受していたことであろう。
それも関東軍の威力を背景にしてのことであった。
しかし関東軍の虚像は崩れ、惨憺たる敗走がはじまった。
そのとき軍は足弱なかれらをあっさりと見捨ててしまう。
開拓団は満州全土のいたるところで無防備のまま放り出され、さまよい歩かねばならなくなった。
そのかれらをソ連軍が急迫してくる。
さらに現地人が仕返しの意味も含めて匪賊のごとく襲いはじめた。

なんどもなんども暴民や武装匪賊の襲撃ですべてを奪われ、
乞食以下となった日本人の行列に、中国人や朝鮮人が
「粟を買わんか」「とうもろこしはいらんか」
と声をかけてくる。
また幼い子供を連れて歩いているものには、中国人が
「子供をくれ、子をおいてゆけ」とうるさくつきまとい、ついには
「女の子は五百円で買うよ。男の子は三百円だ。」と値段をつけてまでした。
生命を守ってくれる軍隊に逃げられ、包囲され、脱出の望みを絶たれた人びとにとって、
最期に残された自由は死だけであった。
忍耐の限界を超えると、生きていることはむしろ無意味な苦痛となっていく。

 

・・・・

 

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8月9日に戦争が始った国③拓け満蒙!行け満州へ!

2022年08月10日 | 昭和20年(終戦まで)

満州に行けばいいことがある。
労働者に仕事はいくらでもある。
農民は広い土地をもらえる。といわれて

それを実行したら、たしかに都市労働者には豊かな暮らしがあり、
農民は大規模農園を営むことが出来た。

ところが、
異国や極寒の冬にもやっと慣れたころ、戦争が始まった。
そして棄てられた。

・・・

 

「満州開拓団の真実」  小林弘忠 七つ森書店 2017年発行

満州行きを勧誘するポスターが、頻繁に全国の農村に貼られるようになったのは、
昭和13年から14年にかけてであった。
「満州に行けば必ず20町歩の地主になれる」
との心をそそる文句もあった。
そのうえ補助金がもらえるというのだ。
せいぜい6~7反歩しかない小作農家のほとんどが、
単位の違う田畑の広大さに目を見張り、いっそ花を咲かせに大陸へ旅立ちたいと、
胸を波打たせた。

関東軍の「移民方策案」
満州支配の関東軍の意図は、満州を新国家と位置づけ、入植によって
帝国日本の「生命線」を確保する。
満州移民は日本の「国防上最重要事項」であるとし、
移民は入植者であると同時に、対ソ防衛の軍事的補助要員であり、
日本帝国主義の先兵の一員である。
昭和7年試験的に移民団が募集され、集まった423人が出立している。これが第一次試験移民といわれる人たちである。
国策として正式に満蒙移民の推進がはかられたのは、2.26事件のあった昭和11年、
広田内閣の時である。

 

 

ソ連兵来る
8月9日、吉林省にある長野県からの「高社郷開拓団」の場合。
10日ぶんの食糧をもって宝清まで避難せよとの指令が出た。
団の協議は「ソ連軍と戦い、団を死守する。敗れれば自決。婦女子は最初から自決」、結論はそういうことだった。
自決用に新しくカミソリが渡された。
青酸カリは、診療所の医師が用意していたが、古くなったためか、犬が死なないことがわかったので使わないことにした。
苦しまないで、ほぼ確実に死ねるのは銃殺である。
銃は大切であった。しかし弾がなくなれば、死ぬこともできないので、弾はもっと貴重であった。
弾丸は、相手を倒すより日本人、しかも同郷人の自決を幇助する殺害の必須用具に変わっていた。
解団式が行われた。

8月15日
連合軍はマッカーサー元帥を連合国最高司令長官に任命。
マッカーサーは重慶放送を通じて
「なるべく速やかに戦闘行為を停止するため・・」と大本営に向けてメッセージを送った。
翌16日「日本軍の戦闘停止を命令する」。
15日には、トルーマンが全軍に戦闘停止命令を出し、イギリス、インドも停止を発令した。
ソ連軍は15日以降になっても戦闘を停止せず、満州では日本側も抵抗した。
満州の中心部、新京ではこの日から無政府状態となり、各所に銃声が響き、
中国人による略奪も相ついで、市民の多くは公共の建物に避難するのが精いっぱいだった。

8月20日以降
ザバイカル方面軍の先遣隊が日本軍総司令部のある新京入りした。
連日数百人単位で続々とやってきた。
通信網が遮断されたため、総司令部と部隊間の連絡手段がなくなり、これより
「停戦も武装解除も無統制のバラバラとなって、各地で混乱が起こった」と、
『満ソ殉難記』は記す。
ソ連軍が治安を維持するとの口実で、傍若無人のソ連兵による略奪、暴行が相つぎ、
とくに女性が大きな災難を被った。
ソ連軍兵の暴威、暴状はやむことがないどころか過疎度を加え、
兵隊たちが「野獣的」になった例は、枚挙にいとまない。
ソ連兵は群れをなして、都市部の日本人家庭、事務所に侵入し、
手当たり次第に金品を略奪した。
抵抗すれば射殺し、集団的婦女暴行も堂々と行われたため、
女性は頭を丸め、顔に墨を塗ったりして男性を装ったが胸をさわられて助成と分かり、集団でいたぶられた。
吉林省敦化の日満パルプ会社の社宅では、男子と女性社員が分離され、170人の婦女子社員を監禁して連日暴行。
23人の女子社員が青酸カリで自殺した。(敦化事件)

 

(つづく)

 

 

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8月9日に戦争が始った国②「満州開拓回顧誌」(芳井町)

2022年08月10日 | 昭和20年(終戦まで)

芳井開拓団は昭和19年2月入植、3月種蒔き、そして
昭和20年5月、根こそぎ動員、8月9日に戦争が始まった。

・・・・



「満州開拓回顧誌」  小谷哲雄 ぎょうせい 平成3年発行

 

開拓団の編成
団長以下5人の幹部指導員を当局に届けを出し、
同時に所定の訓練所に入所する。
茨城県内浦の満蒙開拓訓練所に入所された。
幹部は内浦の訓練所へ、
団員は芳井国民学校に集合し、芳井分村開拓団の編成をみた。
昭和19年1月末であった。

 

満州は元来、清朝発祥の地であった。
清朝が中国大陸を支配するようになってからは、異民族の流入を許さず封禁令をだしたこともあった。
しかしその後、ロシア人の東方進出が激しくなってくると、漢民族の移住を奨励するようになる。
日清戦争後、ロシア宰相ウイッテは、ロシア人60万人を北満に移住させる計画を企てた。
北京政府は5ヶ年計画で、300万人の移民を黒竜江省方面へ送る計画を立てた。
漢民族の満州奥地への進出が盛んになったのは、昭和初期であったと聞く。
漢民族につづいて、移民の多かったのは、朝鮮民族で、昭和12年頃100万人とも120万人ともいわれる。
漢鮮両民族の進出に対し、満州事変以後事情は変わり、昭和7年満州国が誕生すると、
関東軍の手により全満に治安工作がすすみ、北満の穀倉地帯が新たに移住地として開放された。
20ヶ年100万戸の移住が着々と進捗することになった。

 


入植式
幹部は内原訓練所の厳しい錬成を終え、新京を経て現地入りし、
先遣隊も昭和19年2月郷土を出発して、2月8日現地に到着幹部と合流した。
2月11日、紀元節の日、役所、現地人代表を招いて、形ばかりの入植式を挙行した。
五族協和の先兵となり安住の楽土満州国の平和の為に、第二の故郷満州に骨を埋める覚悟で、開拓の大事業に挺身しよう、と語り合ったものである。

開拓は開墾からというのが常識であったのに、私共の入植地はすべて既耕地であった。
想像したような苦労もなく原住民との折り合いもよく、平穏な生活であったが、
今にして思うと、
開拓団は農地を侵略によって入植したので、大反撃を受けたのではなかろうか。

・・・・・・・

「満州開拓団の真実」  小林弘忠 七つ森書店 2017年発行
入植地を既開墾地にすると、中国、満州人ら現地住民と摩擦を生じさせるので、
なるべく未墾地に入植させ、早急に広大な土地を確保するとされたが、
時代がすすむにつれて、既開墾地も侵害し、
中国、満州人を駆逐せざるを得ない状態となった。
最初、満州は寒冷地なので不可耕地が多く、農業に適さないとの反対論もあったのだが、
切羽詰まった国内事情では、強引ともいえる力で推進した。

・・・・・・

現地人の家屋は、寒さに耐えるようになっているので、ガラス戸も二重にできているだけに、空気も悪く家のなかにいると頭痛がするので、できるだけ外に出るよう心掛けた。
地下は相当凍結しているので、作業は難航した。
振り下ろす鍬もかちかち音をたて、掘り起しに随分苦労が多かった。
阜新市とは170キロも離れた街で、馬車で行くと途中で宿泊しなければならない。
往復することは大変であった。

借宿舎は城内にあって、満州特有の強固な土塁をめぐらし、東西南北に大門があり、
城内から約4キロの所に団の本部があり、開拓地の中央に位置し、開拓地はなだらかな丘になっている。
芳井町のように、山坂の多いところを生活の本拠とした者にとっては、
見るもの聞くもの大きな驚きであった。

 

 

春になれば本隊が着く、家族も迎える、その準備に忙しい日々であった。
開拓団の生活は主食等満拓公社から送られてきた。
味もよく主食に事欠くことはなかった。
焼酎・砂糖・衣類・煙草等、
当時内地ではないものが何でも豊富で、うれしいやら有難いやらの連続であった。
農機具が届く、馬鈴薯の種も大量に着荷する。
何から何まで合理的になっていることは、さすが国策としての満州開拓だなというのが実感であった。
服・ぼうし・巻脚絆・地下足袋の類まで一揃の配給があった。
その頃内地では手にはいらないものばかりで、勿体ないという一語につきる毎日であった。

 

現地でも20歳の徴兵検査を受け、合格者は入営させられるし、赤紙での召集もあったが、平穏な日がつづいた。
団員一同の努力は米・雑穀共増収を続け、完納出荷、光明が見えだした時、
即ち、昭和20年5月太平洋戦争は、遂に終戦間際までには団員の9割まで応召し、
老人を残すだけで、本部事務も停滞の止むなきにいたった。
遂に8月11日、第二の故郷を放棄しての避難は、悪天候つづきで、
病気・栄養失調・疲労と死亡者の続出は想像にあまりある苦難の道と言えよう。

 

(つづく)

 

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8月9日に戦争が始った国

2022年08月09日 | 昭和20年(終戦まで)

昭和20年8月9日に日本に宣戦布告したソ連は、日本でなく、満州国に攻め込んだ。
日本の参謀本部は事前に情勢の把握はしていたものの、国に余力はなく、
ソ連が侵入してくれば、されるがまましか手がなかった。
”五族協和””王道楽土”に住む日本人は、そういう美名とは真逆の状況となり、開戦と共に棄民状態になった。

木山捷平さんは当時のことを、次のように書いている。


「私」は、8月12日、日本の軍隊から現地召集を受けた。
翌朝,朝食ぬきで街頭での穴堀り作業。
なんの為に、こんな穴をほるのかとほかの新兵がきけば、敵の戦車がおし寄せて来た時、この穴の中にエンコさせて見せるのだと言うのである。
学校の玄関では、古参兵が数人、せかせかと出刃包丁を木銃にくくりつけているのが見えた。
これが翌日になって、新兵唯一の武器として、私たち老兵に配給せられたのである。

 

(芳井町「満州開拓記念碑」)

 

満州国には本土から、多の邦人が、豊かな暮らしを求めて渡り、
昭和20年8月9日の戦争開戦から、空前絶後の苦難の日々が始まった。

渡満の最大数は国策である「満州開拓団」で、
一例として後月郡芳井町を転記する。

 

「満州開拓回顧誌」  小谷哲雄 ぎょうせい 平成3年発行

 

発刊によせて  岡山県知事 長野士郎

満州事変の勃発した昭和6年の、その翌年から始められた満州開拓は、
昭和史を語るうえで忘れることができないことで、
特に太平洋戦争ぼっ発後は、国運を決する重大な国策として推進されたものです。
進取の気性に富んだ本県後月郡芳井町では、昭和19年2月、東洋のザール地方といわれる石炭の産地錦州阜新市に分村して、入植するところとなり、団員一致協力して営農に取り組まれたのである。
その後、戦況は悪化し、団員皆様方は、いまだに経験したことのない異国での敗戦や食糧の乏しい収容所生活、幾多の苦難を乗り越えて、戦後をたくましく生き抜いてこられたのである。

 

    元衆議院議員 藤井勝志


民俗協和、王道楽土建設の大理想を掲げ、日本民族の発展を目指した満州開拓は、
昭和7年から国策として強力に推進せられ、
昭和20年終戦までに、この大事業に参加した開拓民は、全国32万人を数え、
なれない大陸型の厳しい気候を克服し、戦時中の物資不足に耐えながら、未開の大地を開発して着々とその成果を挙げつつあったときに、敗戦という未曽有の悲劇に遭遇されたのである。
王道楽土建設、満州開拓による日本民族発展の大理想も、一瞬にして崩れ去り、
流浪と飢餓に苦しみ、絶えず生命の危険にさらされる苦難の生活を、異国で経験せられて、昭和21年6月、内地に帰還された。
この間多くの人々が飢餓に病魔にあるいは銃弾に倒れ、また行方不明となられ、
まさにこの世の生き地獄の毎日であったと思われる。


回顧すれば、
私の生まれ故郷芳井町では、農業の振興も狭少な耕地面積では限りがあり、
太平洋戦争下政府の要請に基いて満州開拓が計画され、芳井町を中心に、100世帯300人が錦州阜新市に入植された。
涙なくしては語れない生々しい戦後史の一ページである。
故人となられた開拓団関係の、多くの人々の御霊よ、どうか安らかに故郷の山河に眠られんことをお祈りする次第である。


(つづく)

 

 

 

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「母子三人像」

2022年08月09日 | 銅像の人

場所・広島県福山市霞町 中央公園


「母子三人像」

空襲の翌日、住吉町の田んぼの中で、母親が赤ん坊を抱き、あと一人の子どもを脇にして亡くなっているのが見つかりました。
三人は池田ユキ子・進一・敏子の親子で、夫の虎夫は出征中でした。
昭和47年に福山空襲の惨禍を後世に伝えるためのシンボルとして製作された「母子三人像」は、この親子の姿を刻んだものです。





「福山の歴史(下巻)」 村上正名  歴史図書社  昭和53年発行

福山大空襲

追憶はなつかしい。
でもこのことだけは時がたつに従って暗い淋しい気持ちに追いやられてゆく。
昭和20年8月8日、この日の夜は忘れられない。
炎炎と燃えさかる城下町の明るい光に、くっきりと浮く白亜の五層の天守閣、
家に降りくる焼夷弾を一つ一つ消すごとに仰ぐひとみに力強く、たのもしく、また美しく映じて、
城はまだ落ちないぞ、屋根に散る松葉にもえうつる火の粉を、水をまきつつ防ぎ、ほっと一息二階の窓に、
赤く炎を映じた天守を仰いだ瞬間、ごうごうとひびく九機編隊のB29が上空を過ぎていった。

撮影日・2022年5月14日

 

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8月8日、福山の空が炎に包まれた夜

2022年08月08日 | 昭和20年(終戦まで)

祖母は跡取娘だったので、生涯茂平から出ることはなかった。
その祖母が、同じ話を何度もするのがふたつあった。
一つは、明治時代の茂平の堤防が決壊し、お宮の前まで海水で浸かったこと。
二つ目は、昭和20年の福山空襲で普段は真っ暗な茂平は、昼間のように明るくなったこと。
何度も何度も同じ話を聞いた。


・・・


義兄は福山東国民学校の生徒だったが、笠岡の篠坂に疎開し、親と離れ陶山国民学校に通学していた。
義兄は疎開生活のつらさを、ときどき話していた。
福山空襲の日は燃え上がる福山市街地を眺めながら怖さと、家の心配で震えながらすごしたそうだ。
戦争が終わり、福山からお母さんが迎えにきた。
当時、義兄は3年生だった。

 

・・・

 

「井原市史2」 
8月8日夜10時ごろ、空襲警報が鳴って、火の手、黒煙のあがる福山空襲の様を見ていた。
13日にはいよいよ空襲の標的と身に迫る危険を避けるため、ベンガラを購入して松根油を溶いて白壁を塗った。

 

・・・・

 

昭和20年8月8日焼失した、国宝・福山城天守閣。

 

 

昭和41年に再建したが、なぜか姿・形がまがい物。

今年”令和の大普請”の名目で昭和20年の姿に復元、2022年開城。

再建天守を解体したのは「耐震」が理由で、まがい物を造った責任は誰にもなし、責任論すらない。

 

・・・・


「広島県戦災史」 広島県 第一法規出版  昭和63年発行  

歴史の教えるもの

米軍は7月31日に、福山空襲を予告し避難を勧告していた。
3月の東京空襲以来、全国の各都市が空襲され、大量の人的被害をだしておきながら、
軍・警察・市の指導者は、全市民を市内からあらかじめ退出させる措置をとらなかった。
むしろ「空襲前、警察は市民に火災を防ぐため疎開してはいけない」とし
「福山では、男は絶対逃げてはならぬ、残って家を守れ」と命令されていた。

それは、戦争指導者が作為した「神州不滅」や「一億玉砕」の覚悟という非合理的スローガンが自己呪縛となり、
末端指導者をして、避難勧告に従うことは敵の策略に乗せられることではないかと疑心をいだかせ、
人命尊重を優先させず、むざむざと多数市民を死傷させたのである。
自己呪縛が戦争指導者全体から、事前に避難を命令しうるような権限を奪い去っていたのである。

・・・

 

 

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