しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

笠岡から玉島への港替願

2018年12月29日 | 江戸~明治
江戸時代の玉島港と笠岡港の争い、競争。
備中町史には「悪辣な収奪」とまで記されているが?実際はどうだったんだろう。

「備中町史・本編」より転記。
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笠岡から玉島への港替願
天保9年(1838)備中北部幕府領24ヶ村の指導者・平川村の庄屋・弥七郎が年貢米の入用節減のため、港問屋の仲間稼による収奪の甚だしかった笠岡港から比較的軽かった玉島港へと、年貢米の港替えを変えようとした。
年貢米を川下げののち海船に積み込む港を、笠岡から玉島へ変更することであった。
もともとは玉島港であったが、寛保3年(1743)に倉敷の代官が笠岡に変わったので幕府に願い出て変更していたのである。
一石当たり玉島の1.6倍の入用を要すのが理由である。

笠岡港の問屋は亀川屋又左衛門が村々を買収した。
幕府は笠岡玉島両港を積み立てと決した。
弥七郎はこの争いを通じて、笠岡港問屋の年貢米輸送を対象とする収奪ぶりを白日のもとにさらし、代官所を通じて幕府にその株仲間の具体的内容を訴えもしたので、もはや彼らの以前のごとき悪辣な収奪は憚らざるをえなかった。
さらに天保12年、幕府が実施した株仲間解散令が、弥七郎の企図したところを徹底させるものであり、弥七郎の目的は達せられたとも評価しうるのである。

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