「新修倉敷市史・現代(下」)平成13年発行より転記する。
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昭和12年「防空法」が公布されたが、多くの市民が真剣に防空と取り組むようになったのは、戦況が悪化してからだった。
昭和18年春、県内7町では屋外点灯時間が制限されるようになった。
屋内の電灯は黒い覆いをかけたり窓を覆うなどして光が外へ漏れないようにしなければなくなり、その灯火管制を少年団・警棒団・隣組などが監視した。
日本各地が空襲を受けるようになると、防空壕も造らねばならなくなった。
各戸で自宅の庭に造るのは当然で、人の出入りの多い場所などに横穴式防空壕の築造が半ば強制された。
市民は白壁の家を煤などで黒く塗って目立たなくし、バケツリレーの訓練に度々参加させられた。
これは米軍のB29爆撃機による焼夷弾爆撃で起こる火災をバケツの水で消す訓練。
元気な男性は大半が戦場に駆り出され、残る女性や老人がその訓練の中心だった。
女子青年団員は空襲に備えて炊き出し訓練も行われた。
米軍が本土に近づいてくると、身長より少し長い竹の先端を斜めに切った竹槍で敵を突き刺す訓練も繰り返された。その標的に藁人形を置き、ルーズベルトらの絵を貼って、敵愾心をあおられることもあった。
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