しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

トト道

2018年12月12日 | 江戸~明治

管理人は半農半漁の村に育ったので、生魚を食べる機会は多かったが、それは商品にならない雑魚を意味する。

年に何度か?
母が「ブエン(無塩)じゃ」と嬉しそうに料理していた。
日本人が無塩の魚を食べれるようになったのは、冷蔵庫が普及した、高度経済成長後と思われる。
それまでは年に1~2度、慶事に食べるものだった。




ところで金浦の魚は何処が市場だったのだろう?
金浦から井原・芳井・高山に売られていたと思うが、
市内の新山や北川では備中松山に運んだという説がある。
松山城下の魚は、黒崎や寄島の方が無理がないように思えるが・・・
(調査していないので自信はない)

下記の成羽町史でも、全盛期の吹屋まで運ばれているが、備中松山へという個所はない。

「成羽町史」より転記する。

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「成羽町史」より転記する。


生活に必要な日用雑貨品は、玉島から高瀬舟で運ばれていた。
この川船往来とは別に、海魚が笠岡方面から吹屋へ運ばれた。
かつて古老に聞いた話であるが、足自慢の若者が、夜半に笠岡を出て、宇土谷を経て、保木の坂から成羽へ駆け抜けた。
成羽で引き継がれた魚は、羽山街道を上って吹屋へ運ばれたという。
山の中の吹屋での最高のご馳走は海の魚、いわゆる「トト」であった。
したがって、吹屋へのこの道を「トト道」といった。
繁栄を極めた吹屋銅山の往時が偲ばれる。


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2018.12.29「矢掛町史」から追記
矢掛町矢掛より東は玉島・寄島と記されている。

矢掛町史「行商」
魚の行商が最も多く、小田、中川、川面には笠岡の西浜から来ていた。
また、矢掛、美川、山田、三谷には富峠を越えて玉島、寄島から自転車やテンビン棒でかついで持って来ていた。

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祖父母の下着

2018年12月12日 | 江戸~明治
明治20年代後半に生まれた祖父母が着ていたもの。

祖父は1990年代に亡くなったが、パンツでなくフンドシだった。
子供の頃、父はなぜフンドシでないのだろうと思っていた。

祖母は、亡くなるまでお腰(オコシ)だった。
ズロースは、はかなかった。
トイレは家でも畑でも立ってしていた。
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明治時代の結婚式は夜に

2018年12月12日 | 江戸~明治
管理人のひいひい祖母さんは、戦時中に98才で亡くなったが結婚式は提灯行列で嫁入りした。
1846年生まれなので、20才前頃かな? 1865~6年頃、明治維新の直前頃の式と思える。
その夕方~夜の婚礼は明治末ごろまでつづいたようだ。
昭和17年、母はタクシーで嫁入りしたそうだから昼の婚礼になる。


「奥津町の民族」2004年発行より転記
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昔の挙式は「夜10時にした」というように夜であった。
予定時刻になると花嫁は髪を整えてもらい奥座敷に入る。
嫁に行く場合は、歓びをもらった親戚や近隣、知人を招待して宴を開いた。
このことを「出立ちをする」と言った。
嫁ぎ先が遠方なら婚礼日の前日に、近くの場合は当日行い、嫁に出る娘が別れの挨拶をする。
なお、出立ちをする前に、氏神様に参ったり近所に挨拶回りをしていた。
出立ちの宴が終わる頃、花嫁は仲人の先導で奥座敷の縁側から出ていった。
これは、もうこの家の者でなく「縁を切って出る」おいう意味があったという。
家を出る時に藁火を焚く習慣もあった。家を出るとき、この火をみたら寂しい思いがしたという。
昭和20年頃までの結婚式は夜、または夜にかけて行われることが多かった。
提灯に先導されて歩いてきたという古老が多い。
「大正末から昭和初期には、花嫁を馬で運ぶ人がいた」
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