しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

金属類供出(倉敷市の場合)

2018年12月18日 | 昭和16年~19年
「新修倉敷市史・現代(下」)平成13年発行より転記する。

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供出で金属類がなくなる

戦火の拡大とともにさまざまな金属が軍事物資として回収された。

昭和14年4月、味野・琴浦・児島・赤崎・下津井・藤戸の各町役場の鉄門・鉄柵、鉄板などが姿を消した。

昭和16年6月「街の鉱山を掘れ」というポスターが貼られ、町内会・会社・工場が鉄くず・古鉄・銅くずの回収を進めた。9月に鉄と銅の二次回収があり、寺院の梵鐘12個を含む鋼材15トンが回収された。
この回収にそなえて倉敷市役所は同市の構造物内にある鉄と銅の製品を供出台帳に登録したが、中には新渓園の青銅手水鉢釣り灯籠、鶴形山の動物小屋やベンチなど、学校では国旗掲揚台、鉄柵、二宮金次郎や楠木正成の銅像が含まれていた。
やがて郵便ポストも回収され、木製や陶製に変えられた。

昭和18年1月には銅貨や白銅貨をアルミ貨や紙幣と交換。4月からは学童や警察官らの制服のボタン・食器・鉄道の遊休レール、自動車・橋梁・警鐘台・寝台・戸のレール・・・・と、金属類の根こそぎ回収となった。

昭和19年夏から銀が、”航空戦力増強のため”という理由で従来の2倍に値上げして大急ぎで買い上げられた。
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トト道

2018年12月12日 | 江戸~明治

管理人は半農半漁の村に育ったので、生魚を食べる機会は多かったが、それは商品にならない雑魚を意味する。

年に何度か?
母が「ブエン(無塩)じゃ」と嬉しそうに料理していた。
日本人が無塩の魚を食べれるようになったのは、冷蔵庫が普及した、高度経済成長後と思われる。
それまでは年に1~2度、慶事に食べるものだった。




ところで金浦の魚は何処が市場だったのだろう?
金浦から井原・芳井・高山に売られていたと思うが、
市内の新山や北川では備中松山に運んだという説がある。
松山城下の魚は、黒崎や寄島の方が無理がないように思えるが・・・
(調査していないので自信はない)

下記の成羽町史でも、全盛期の吹屋まで運ばれているが、備中松山へという個所はない。

「成羽町史」より転記する。

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「成羽町史」より転記する。


生活に必要な日用雑貨品は、玉島から高瀬舟で運ばれていた。
この川船往来とは別に、海魚が笠岡方面から吹屋へ運ばれた。
かつて古老に聞いた話であるが、足自慢の若者が、夜半に笠岡を出て、宇土谷を経て、保木の坂から成羽へ駆け抜けた。
成羽で引き継がれた魚は、羽山街道を上って吹屋へ運ばれたという。
山の中の吹屋での最高のご馳走は海の魚、いわゆる「トト」であった。
したがって、吹屋へのこの道を「トト道」といった。
繁栄を極めた吹屋銅山の往時が偲ばれる。


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2018.12.29「矢掛町史」から追記
矢掛町矢掛より東は玉島・寄島と記されている。

矢掛町史「行商」
魚の行商が最も多く、小田、中川、川面には笠岡の西浜から来ていた。
また、矢掛、美川、山田、三谷には富峠を越えて玉島、寄島から自転車やテンビン棒でかついで持って来ていた。

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祖父母の下着

2018年12月12日 | 江戸~明治
明治20年代後半に生まれた祖父母が着ていたもの。

祖父は1990年代に亡くなったが、パンツでなくフンドシだった。
子供の頃、父はなぜフンドシでないのだろうと思っていた。

祖母は、亡くなるまでお腰(オコシ)だった。
ズロースは、はかなかった。
トイレは家でも畑でも立ってしていた。
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明治時代の結婚式は夜に

2018年12月12日 | 江戸~明治
管理人のひいひい祖母さんは、戦時中に98才で亡くなったが結婚式は提灯行列で嫁入りした。
1846年生まれなので、20才前頃かな? 1865~6年頃、明治維新の直前頃の式と思える。
その夕方~夜の婚礼は明治末ごろまでつづいたようだ。
昭和17年、母はタクシーで嫁入りしたそうだから昼の婚礼になる。


「奥津町の民族」2004年発行より転記
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昔の挙式は「夜10時にした」というように夜であった。
予定時刻になると花嫁は髪を整えてもらい奥座敷に入る。
嫁に行く場合は、歓びをもらった親戚や近隣、知人を招待して宴を開いた。
このことを「出立ちをする」と言った。
嫁ぎ先が遠方なら婚礼日の前日に、近くの場合は当日行い、嫁に出る娘が別れの挨拶をする。
なお、出立ちをする前に、氏神様に参ったり近所に挨拶回りをしていた。
出立ちの宴が終わる頃、花嫁は仲人の先導で奥座敷の縁側から出ていった。
これは、もうこの家の者でなく「縁を切って出る」おいう意味があったという。
家を出る時に藁火を焚く習慣もあった。家を出るとき、この火をみたら寂しい思いがしたという。
昭和20年頃までの結婚式は夜、または夜にかけて行われることが多かった。
提灯に先導されて歩いてきたという古老が多い。
「大正末から昭和初期には、花嫁を馬で運ぶ人がいた」
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