しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

豆腐を食べる

2024年04月20日 | (冷蔵庫が家になかった時の)食べ物

「アゲにおとーふ」と言いながら、豆腐売りが茂平の家々をまわっていた。
豆腐を買う家は、笊を持って道べりまで出て買う。
お金か、または大豆と交換していた。

すぐ近所に何故か「豆腐屋」と呼ばれる家があった。
父に聞くと、昔は豆腐を作っていたので「豆腐屋」と呼んでいる、と話していた。

農家にとって、豆腐汁とか、豆腐の入った料理はご馳走だった。

 

 


「岡山県史第15巻民俗Ⅰ」 岡山県  昭和58年発行


豆腐
煮た大豆を碾臼で挽き、それを豆腐袋にいれて絞ると、豆乳とオカラに分かれる。
豆乳を豆腐箱・豆腐袋に入れて汁で固めると豆腐ができる。
苦汁も自家製で、塩を甕の上において、塩からたれ落ち 苦汁を使った。

豆腐は大豆を収穫して、晩秋から節季にかけてたびたび作った。
秋祭り・八日待ち・正月・旧二月一日や 三月節供、あるいは葬式などでは必ずといっていいほど作った。
正月餅を搗いたあと、温まっている平釜を使って正月用の豆腐を作った。 
人が死ぬと、米搗きとともに、豆腐作りに気をつかい、大豆の水かしから始めた。
旧十二月八日は、八日待ちとかコト八日といい、一年の仕事納めなので、豆腐やコンニャクを食べ、 一年中の砂をおろし、嘘はらいといって、誓文払いをする。
店に買い物に行くと、豆腐汁を食べさせてくれたりした。
また、折れた針を集めて針供養の日に、豆腐やコンニャクに刺し、針に感謝し、和歌山市加太の淡島明神に納める所もある。


「聞き書 広島の食事」 神田三亀男  農山漁村文化協会 昭和62年発行

豆腐をつくる

豆 腐
秋から春にかけては家でつくり、夏場は腐りやすいので買って食べる。
大豆一升で四丁と交換できる。
家でつくるときは、一回に二升の大豆で豆腐一箱分(一〇丁)ができる。

・・・・・

「聞き書 広島の食事」 神田三亀男  農山漁村文化協会 昭和62年発行

豆腐

豆腐をつくるのは、正月、祭り、盆、法事などに限られ朝早くから二人がかりで豆をする。
二升一箱(亘二升で 豆腐一箱=一二丁)がふつうで、石田が一回転するごとに、さかずきに水こみ一杯ずつの大豆を石に流しこむ。 
大豆を入れすぎたときは、石田を二回転ぐらいさせてから 次の豆を入れる。この入れ方で目の細かい呉ができるかどうかが決まる。
豆が多くも少なくもなく、水も多くも少なくもないことがこつである。
豆腐は汁の実、白めえ (白あえ)、けんちゃんにする。
また、焼き豆腐、凍み 豆腐にして長もちさせる。 
おからは、野菜と一緒に炒め煮にする。

「日本の風土食探訪  市川健夫  白水社  2003年発行


国民的な食品、豆腐
精進食品だった豆腐

大豆からつくられる豆腐は、中国・朝鮮・日本など東アジアに共通した食文化である。
日本では仏教伝来とともに、僧侶たちの精進料理の一つとして豆腐が伝えられた。
肉食を禁じられた 僧侶たちにとって、「畑の肉」ともいわれ植物蛋白質に富む大豆からつくられる豆腐は、日常的に不可欠な食品であった。
豆腐はごく最近まで"トーフー"というラッパの音とともに、豆腐屋さんが自転車で町内を回って振売りしていた。
今でも田舎に行くと、バイクに乗った豆腐屋さんが走っている風景を見かける。
また豆腐屋にブリキ製の容器やポールを持って買いに行けば、大きな包丁で水の中の豆腐を切って、売ってくれた。
このごろの消費者はスーパーやデパートなどの大型店でパックに入った大量生産された豆腐を買うケースが多くなっている。

凍み豆腐

真言密教の聖地、高野山は白胡麻と吉野葛でつくられた胡麻豆腐をはじめ、精進料理で有名である。
また高野山は凍み豆腐、つまり高野豆腐の発祥地でもある。
中世高野山の院坊で、台所に豆腐を置き忘れたところ凍っていた。
もったいないので、煮て食べたところ大変おいしかった。
これが凍み豆腐の始まりで、高野山の周辺には最盛期100戸ほどの業者があった。


 

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