秋に実が成るのに、なんで「冬柿」というのだろう?
と不思議に思っていたが、
それは「冬柿」ではなくて「富有柿(ふゆうがき)」だった。
非常に残念ながら、家に富有柿の木は無かった。
田舎の自給生活の村は、野菜や果物は、”トリカエ”で日常生活が成り立っていた。
それで、近所の柿農家から富有柿がウチにくるのだが、
それを待つのが苦しいくらい、もらった時はうれしかった。
家に「渋柿」はあった。
大きな西条柿の木が一本あった。
竹の竿で枝を折って収穫し、皮をむいで、吊るし柿にしていた。
吊るし柿は、冬になると白い砂糖がふきでるが、それを待てなかった。
吊るして日が経つと渋みが消えて、甘くなった。
毎年、吊るした縄から何個かを食べた。
あの甘い西条柿はほんとに美味かった。
(岡山県小田郡矢掛町小田・山ノ上 2017.12.17)
「江戸の食生活」 原田信夫 岩波書店 2003年発行
江戸食物事情・果実のたのしみ
日本の果実
日本原産とされる果実は、ニホンナシニホングリ・カキなどで、かつては今日の果物のことを水菓子と称していた。
古代も奈良時代になると、「延喜式』には「菓子」として
梨子・桃子 柑子(蜜 の一種)・小柑子(金柑)・柿子・橘子・大棗・郁子(木通)・覆盆子(苺)・胡桃子(胡桃)・柚子・枇 杷・李子・栗子・椎子・菱子・揚梅・甘葛煎などが記されている。
中世に入ると、南北朝期の『庭訓往来」の「菓子」の項には、
生栗・搗栗・串柿・熟柿・干棗・ 花梨子・榛樵・麭・田鳥子・覆盆子・百合草が挙げられており、諸国の名産に「宰府栗」が見える。
栗のような木の実類を除けば、もっとも中世人に親しまれていた果実は、柿の類であったものと思われる。
江戸食
ここでは柿が圧倒的に多く、次が梨で桃と梅が続き、苺がかなり各地で生産されていた様子を知ることができる。
このうち柿は、干し柿とすれば季節を越えて保存が利きれて、 広く人々に親しまれたことによるものであろう。
また蜜柑は気候との関係から、生産地に自然の制約が大きかった。
「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫 昭和52年発行
柿
日本に原生していただろうといわれている。
「聞き書 広島の食事」 神田三亀男 農山漁村文化協会 昭和62年発行
つるし柿
渋柿はつるし柿にして、冬のおやつにする。
皮むきは夜なべ仕事で、 へたを切る者、皮をむく者、縄にはせる者と手分けして、家族みんなでやる。
一たれ(六尺ほどの 縄一連)に50個ほどつけて、軒下につるして干すが、200たれくらいはつくる。
乾いてほとり(周囲)が固くなったら、一個ずつ指でつまんでやわらかくする。
これを二回くり返す。
最後に、びぼうき(机をとった稲穂の先でつくるほうき)でなで、そうめん箱やみかん箱にそば殻かわらを敷いて詰めておくと、白い粉がふいてくる。
正月には年玉として、子どもに二個ずつ配る。
お客さんには、湯飲みへ一個入れ、番茶か熱湯をかけて出す。
小さくて皮がむけない柿は、輪切りにして干す。
中部台地の東南のはずれ菅野村では、串柿づくりが盛んで、「外でにこにこ、なかむつまじく」といって、両端に 二個、中に六個になるように、竹串にさして干す。お正月の縁起ものとして鏡もちに飾る。
「矢掛町史」 矢掛町 昭和55年発行
干柿
小田字土井原は海抜200メートル前後の所にあり、副業として、この地方では干柿づくりが古くから盛んである。
畑のあちこちに柿が植えてあり、十月末からどの農家も干柿づくりを始める。
種類は西条、オカン、大玉、タマンボウなどでその中でも西条がいちばん多い。
高原上だけでは柿が少ないので、 小田、吉備郡一帯まで買いに行っていた。
皮むきを「けずり」といって、鎌を腰にさして固定し、柿をぐるぐる回して、手際よく仕上げられる。
十二月中旬になると、「手入れ」といって、半乾きの柿を一つずつ手でもんで、屋内で乾燥する。
すると、きれい に粉をふく。旧正月に出荷していたが、今では新正月に出している。
歳末のころになると、NHKテレビの天気予報番組の背景写真に、この地方の干柿スダレが毎年のように紹介され ているので、見られた人も多いと思う。
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