しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

醤油を作る

2024年03月28日 | (冷蔵庫が家になかった時の)食べ物

昭和32年前後まで、家で醤油を作っていた。
土間に置いていたその木製の機械からは醤油がポットリポットリと落ちていた。
それは茂平のどこの家も同じだった。

 

(母の話)

醤油つくりの話


麹つくりがたいへんじゃった。めんどうなんじゃ。
小麦を植え、大豆を植え。
麹を作り。

彼岸を境に麹をつくる。時候が寒うてもできん。
長屋へいれて。熱うても、寒うても腐ってしまう。

その頃(彼岸)になると何処の家からも炊く匂いがしょうた。豆のかざがする。
唐臼で搗きょうた。

実家のトノばあさんは村中で評判のええ麹をつくりょうた。
おばあちゃんは(実家へ行ったとき)習うて、真似をしたらエエ麹ができるようになった。

どこの家にも甕にいっぱい「ひしお」を作っておいとった。
途中から鴨方で麹を作ってくれるとこができだした。


醤油を搾る
麹を1年寝かして、塩と水をいれて、混ぜくるんじゃが。せいから搾る。
辛ぃ醤油ができるんじゃ。

二番醤油
せいからまだ、おばあさんはもったいない言ぅて塩を(更に)混ぜて二番醤油ゆうのをつくりょうた。
一回使ぅた麹を、それをもう一回使う。塩と水を足して。


(父の話)
麹は作る人によって上手なウチがあった。

一番醤油は味がええ。
二番醤油は辛いばあじゃった。味がねぃ。


2002年5月26日

 

 

 

「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行

醤油

原料は小麦、大豆、塩である。
醤油一斗作るのに小麦一升、大豆一升、水五升、塩五升である。
樽に仕込みかきまぜる。よく溶けたころ、醤油搾り袋に入れてフネで搾り、
それを釜で炊いて食用の醤油とする。

 

 

「鴨方町史民俗編」  鴨方町  昭和60年発行

醬油 
自家製醤油を手醬油といった。
まれに作った家がある。 
第二次世界大戦中や終戦直後には、作る家が増えた。
原料は、大豆と小麦・塩である。
麺のもとは買って来て麹作りをし、四斗樽に仕込む。 
仕込みをしてしばらくすると、樽に籠を入れ、諸味をすくっておかずにした。
また、常に入れている籠にたまっ醤油は、調味料として使った。 
もろみ
醤油袋に諸味を入れ、フネに石の重しで絞った。
絞った醤油は釜に入れて炊く。
一番醬油である。
絞りかすの諸味は、樽にかえし水を入れ、塩を加える。
しばらくの間発酵させ、フネで絞る。 
二番醤油である。 
比較的早くから、醤油屋といって醸造屋ができたので、たいていは醤油屋で買った。
初めは一升徳利を持って行って、醤油を入れてもらった。
後には、醤油を入れた五升樽を持って来てくれるようになり、一斗樽 を持って来るようにもなった。
一升瓶が使われるようになってからは、一升買いをするようにもなるが、一斗樽の時代がなお続いた。

 

 

「岡山県史第15巻民俗Ⅰ」 岡山県  昭和58年発行


笠岡市吉田での醤油の作り方は、醤油一斗作るのに、小麦一升・大豆一升水五升・塩五升である。
仕込みをして、しばらくすると、樽に竹簀をいれておいて、汁杓子ですくって調味料として使い、
諸味(諸味噌)はおかずにする。
たびたび櫂をいれてかきまぜる。
黴がきたり、虫がわくからである。
よく溶けたころ、醤油絞り袋にいれてフネで絞り、それを釜で炊いて食用の醤油とする。
醬油絞りは二番醬油まで絞る。

 

「聞き書 広島の食事」 神田三亀男  農山漁村文化協会 昭和62年発行

醤油
家でつくる醤油を手醤油といい、寒い時期につくる。
夏につくると虫になる(虫がわく)。
大豆一斗五升、小麦一斗五升、塩一斗、で仕込む。
一年たち、一夏越すと、もろみの表面に透明な液がでてくる。
こうなったら、もろみをしぼり、一番醬油をとる。 
家ではしっかりしぼれないので、もう一度塩水を入れて、 二番醤油をとる。 
しぼった醤油は焼酎がめに入れて、たもいたもい(大事に大事に残すように)食べる。 
しぼる前の もろみの中に竹を立て、いるだけかたくちにすくって使うこともある。
もろみはそのままか、ときにはいりこを炒って混ぜ、ごはんのおかずにすることもある。


・・・

醤油は、初夏から初秋にかけてつくる。
大豆と小麦を一 斗五升ずつ使う。
大豆は一晩水がしをしてやわらかく炊くが、味噌豆ほどにはやわらかくなくてもよい。 
小麦は炒り、石臼で荒くひき割る。
四つ割りくらいになったものや粉になったものがあるくらいにする。
この大豆と小麦で、醤油のもとになる醤油こうじをつくる。
味噌こうじと同じように、土間に青草を六、七すくらいの厚さに重ね、その上にむしろを二枚ほど重ねて敷く。 
むしろの上にひき割った小麦の半分くらいを平らに広げ、 
その上に水気を切って人肌より少し高めの温度に冷ました大豆を広げる。
さらにその上に、残りの小麦と種こうじを混ぜて広げる。
むしろの両端を持ってよく混ぜ、種こうじがまんべんなくゆきわたるようにする。
よく混ぜたら、むしろのまん中に盛り、上からもむしろをかけて熱がくるようにする。
手入れは味噌こうじとだいたい同じだが、少し時間をかけて、こうじが黄色くなるま でねかせる。 
こうじができたら、塩一斗五升に水三斗の塩湯を煮たてて入れ、一石桶に仕込む。
仕込んでからは、かいで毎日混ぜる。
大豆と小麦を合わせて三斗の実物(材料)から六斗の醤油がとれる。
一番醤油を三斗、また塩湯を入れて二番醤油を三斗とる。

 

「金光町史民俗編」 金光町 平成10年発行
醤油
昔は家で作ったと言われるが、明治生まれの人でも作った経験はなく、醤油屋から購入した。 
一升徳利をぶら下げて買いにいっていた。

 

「日本の風土食探訪  市川健夫  白水社  2003年発行

日本独特の調味料、醬油


現在日本人が日常用いている醤油は、日本独特の調味料である。
大豆、小麦から醬油麹をつくり、食塩と水を加えて発酵させたものを指す。
このような醬油が普及するのは、江戸時代になってからで、それまでの醤油の素材や醸造法には紆余曲折があった。

大豆を煮るか蒸し、ほぼ同量の大麦もしくは小麦を砕き、両者を混ぜて麴をつくり、これに塩を加えて醪にし、
時折り攪拌して発酵・熟成させた醬油は、室町時代から始まった。
このころから江戸初期にかけて、企業による醬油生産が
紀州の湯浅、京都、和泉の堺、播州の龍野、下総の野田・銚子などで発展した。
江戸前期における醬油は堺・大坂など上方産の方が上質で「下り醤油」といわれて、江戸市場をも独占していた。
後期になると関東物の質が向上して「江戸紫」といわれるように、関東産で占めるに至った 。
 一八世紀後半、野田で茂木家や高梨家などが創業するが、両家はキッコーマンの前身である。
野田・銚子に多くの醤油企業が立地するのは、利根川と江戸川の水運で原料・製品の輸送の便がよかったことがあげられる。

 

「江戸の食生活」  原田信夫 岩波書店  2003年発行

しょうゆ

近世前期までは、江戸でもほとんどが、関西からのいわゆる下り醤油が使われていたが、
紀州の醤油醸造技術を採り入れた銚子をはじめ、
野田・土浦・成田・下館・川越など、関 東周辺からの醤油で、江戸の食膳が賄われるようになったのである。
このことは、江戸を中心とした関東周辺の農村が、新たな経済構造に組み込まれたことを意味する。
また全国各地からの名産物が、西廻航路や東廻航路によって船で江戸へと運ばれ、さまざまな海産物や調味料も出回っていた。
ただ江戸の食生活を支える日常的な野菜・根菜類は、こうした地回り経済圏から供給されていた。

「日本食物史」  江原・石川・東四柳  吉川弘文館 2009年発行

醤油の生産と流通 
日本の調味料として古くから発展した味噌に加えて、醤油が登場するのは、中世のことで、
湯浅醤油(和歌山県有田郡湯浅町)が知られるが、大規模に製造されるようになるのは江戸時代のこと。
味噌が各家で製造されることが多かったのに対し、醤油製造は酒造業と並び、発酵工業として発達した。
醤油の起源としては、醤を絞ったものとする説と味噌からにじみ出るたまりを集めたとする説がある。

文政期前後の料理書からは、醤油が調味料として盛んに登場するようになる。
刺身にも、わさび醤油が登場し、かば焼きに山椒醤油、魚の醤油付け焼きなど各種料理の調味として醤油が一般化していった。

 

 

 

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