しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

「奥の細道」五月雨の降りのこしてや光堂  (岩手県平泉)

2024年08月13日 | 旅と文学(奥の細道)

この東北旅行の時は天気に恵まれなかった。
しかし、中尊寺の濡れた参道を歩いているとき薄日が差した。
この旅行中で、初めて光と地面に影ができた。

この日は6月30日で、
芭蕉と曾良が中尊寺を訪れた旧暦五月十二日と一日違い。

何か芭蕉が歩き見た中尊寺と同じように感じ、
幸運を感じながら光堂を拝観した。

 

 

・・・

旅の場所・岩手県西磐井郡平泉町 ” 世界遺産” 中尊寺   
旅の日・2019年6月30日           
書名・奥の細道
原作者・松尾芭蕉


・・・

「奥の細道の旅」 講談社 1989年発行


兼て耳驚かしたる二堂開帳す。
経堂は三将の像をのこし、光堂は三代の棺を納め、
三尊の仏を安置す。
七宝散りうせて、珠扉風にやぶれ、
金の柱霜雪に朽ちて、既に頽廃空虚の叢と成るべきを、
四面新に囲みて、甍を覆ひて風雨を凌ぎ、暫時千歳の記念とはなれり。


五月雨の降りのこしてや光堂

 

 

 

・・・

「超訳芭蕉百句」 嵐山光三郎  筑摩書房 2022年発行


五月雨の降のこしてや光堂


芭蕉は平泉で、二堂、中尊寺の光堂 (金色堂)と経堂(経蔵)へ参拝した。
「経堂は三将の像を残し、光堂は藤原三代の棺を納め、三尊仏を安置している」とあるが、
経堂には三将(清衡、基衡、秀衡)の像はなく、「三将の経」(藤原氏三代の奉納した一切経)がある。
文珠菩薩、優塡王、 善哉童子の像があるので、それを三将の像と思いちがえたか。
光堂の三尊の仏は阿弥陀三尊(阿弥陀如来・観世音菩薩・勢至菩薩)である。
なにぶん芭蕉の実地取材は二時間しかなかった。

「四面新に囲て」は光堂を覆う鞘堂のことで、鎌倉時代、南北朝末に作られた。
光堂は、柱から床まですべてが黄金である。
光堂は黄金装置であり、黄金の内面が死であることを思いあわせれば、光堂は無常の棺である。

 

・・・

 

・・・

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「奥の細道」卯の花に兼房みゆる白毛かな  (岩手県平泉)

2024年08月13日 | 旅と文学(奥の細道)

兼房は高館で、義経夫婦が自害したことを見届けた。
その後、館に火を放ち、壮烈な最期を遂げた人。

そのことは【義経記】に記されているが、
現在では架空の人とされている。

 

 

 

・・・

旅の場所・岩手県西磐井郡平泉町 ” 世界遺産” 毛越寺(もうつうじ)   
旅の日・2019年6月30日           
書名・奥の細道
原作者・松尾芭蕉

・・・

「芭蕉物語」  麻生磯次 新潮社 昭和50年発行


曽良は増尾十郎兼房の奮戦の有様を想像していた。
兼房は初め大納言久我時忠の臣であったが、時忠の娘が義経の正妻となったので乳人役であった兼房は義経の臣となった。
高館最後の日に、泣く泣く義経の妻子を刀にかけ、館に火を放ち、
長崎次郎を死出の道連れにして猛火に飛びこみ、壮烈な最後をとげた。
六十三歳の老齢であった。
折から咲き乱れる卯の花を見ると、白髪をふり乱して奮戦した兼房の姿が、髣髴と眼前に現われてくる。
そこでこういう句を作った。

卯の花に兼房みゆる白毛かな  曾良

卯の花を白毛に見立て、幻想的な趣向、芭蕉の句の余韻・・・をひびかせているといえるかも知れない。

・・・

・・・

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする