紅花は山形県の”県花”に指定されている。
紅花は江戸時代に最上川沿岸で大隆盛したが、明治になって突然衰退した。
現在は観光用に少し栽培されている。
時期は、岡山県でいえば綿花に似ている。
一瞬で衰退したといえば、塩田もイ草もそうだ。
煙草や除虫菊や薄荷や養蚕も、今はない。
現在では「紅花」を偲ぶことしかできないが、
芭蕉は、紅花隆盛期の、しかもその開花時に最上川を訪れている。
・・・
「紅花(べにばな) ものとの人間の文化史」 竹内純子著 2004年 法政大学出版
江戸初期から栽培された最上山形の紅花は、色素が豊富で特に京都西陣の染織物に勧化され、
衣類の華美となった元禄のころから需要を増し、
輸出量は「最上千駄」といわれ、豊年のときは千三百駄にのぼったといわれる。
これらの積荷は最上川は舟で下り、酒田港で大船に積み替え、敦賀に入り、京都や大坂に輸送された。
紅花は花も葉も薊(あざみ)に似る越年草で、秋に種を蒔き、7月に花を咲かせる。
花は枝の末(先端)から咲き始め、その花弁を摘むので「末摘花」という異名が生まれた。
紅花は染料と顔料の二つの面を持つ、これは植物のなかでは紅花と藍だけである。
染料を得るため「寝かせ」という発酵の過程があり、熱を嫌うという共通点がある。
藍と紅花は相違点がありながら、その後は明暗を分けた。
藍は木綿と相性がよいことから仕事着から普段着まで用いられたが、
紅染は絹に染めつくため庶民の普段着用にならなかったのである。
紅花は葉や茎を乾燥して煎じ、民間薬として飲用され、間引きした紅花は茹でて食用にしていた。
種は油料である。
栽培の人たちは「紅花は捨てるとこがない」といわれていた。
芭蕉は奥の細道のどこで紅花を見たのか
尾花沢では紅花栽培はほとんど行われなかった。
芭蕉は尾花沢で10日間を過ごした。そのうち3日は清風宅で、あとの7日は養泉寺だった。
この間、雨の日が多かった。
芭蕉は尾花沢から立石寺に向かうのだが、楯岡村までは清風が用意してくれた馬で行った。
山形領に立石寺という山寺あり。慈覚大師の開祖にて、殊に清閑の地なり。
一見すべきよし、人々のすすむるによりて、尾花沢よりとってかへし、その間七里ばかりなり。
芭蕉が紅花を見たのは、尾花沢から立石寺に向かう道中であろう。
・・・
「NHKラジオ深夜便」 2014年7月号
ベニバナ 紅花
古代から地中海周辺で染料と薬用に栽培し、紅色を染める技術とともにシルクロードを経て、中国、日本に伝わった。
「紅藍花」は中国名、日本では「呉の藍」から紅と呼び、色の名にもなった。
摘んだ花を水に浸けて黄色い色素を除き、搾った花にアルカリ性の灰汁を注ぐと濁った赤い色となる。
これに酸性液を入れると、一瞬で鮮紅色に変わり布を染められる。
これを沈殿させて作るのが紅で、
江戸時代の女性は貝殻などに塗ってあるものを小指に取り、唇につけた。
おちょぼ口が美人であった。
時には厚く塗ることが見栄で、美しく見せようと苦心した。
・・・
・・・
旅の場所・山形県寒河江市「さがえサービスエリア」
旅の日・2022年7月10日
書名・奥の細道
原作者・松尾芭蕉
・・・
「山形県の歴史」 山川出版 昭和45年発行
最上紅花の発展
紅花は、相模・出羽・上総・筑後・薩摩が産地だが最上山形がもっとも良質とされた。
最上紅花が全国の約半分を占めていた。
紅花は豊凶の差がはなはだしく、日照りや花どきに多雨があると半作にも達しない。
農民にとって貨幣収益がよく、換金作物だった。
紅花作には金肥が必要であり、摘み取り期の労働力の制約があり、規模拡大には限界があった。
農民が収益をあげられるのは、農民みずから干花加工を行った場合である。
花摘みから花餅まで一ヶ月、女・男・子供・賃労働者で行った。
紅花商人
前期の商人で代表は、紅花大尽といわれた尾花沢の鈴木清風であろう。
芭蕉の「奥の細道」でも紹介されている。
後期に栄えた紅花商人の多くは、現在の金融・商業界の中心的存在といってもいい。
全国にその名をはくした“最上紅花”は、幕末に支邦紅が輸入され、明治に入り化学染料が輸入され、衰退していった・・・・
商業・金融・木綿・絹・瀬戸物・書籍まで多様な営業内容で、質流れ旧地を獲得する形で、土地集積は進んだ。
・・・
「日本の城下町2東北(二)」 1981年3月ぎょうせい発行
山形市の築城と城下町づくりは最上義光によって行われた。
義光は最上川の三難所を削岩させ船便をひらいた。
山形を玄関として、幕府天領米・藩米は最上川を下って酒田から海路・江戸に送られ、
西回り航路がひらけると最上産の紅花・青そなどが京都・大坂・奈良へとおくられるようになる。
返り荷には、塩・砂糖をはじめ瀬戸物・太物・古手物・操綿・木綿などが送られてきた。
最上川水運がととのったのは寛文(1596~1673)にかけてである。
京都や奈良へ紅花・青その交易に先鞭をつけたは近江商人で、日野系と八幡系。
紅花は陽暦でいえば7月はじめから咲きだし、15日間くらいで終わる。
農家が朝早く摘んだ生花を、サンベと呼ばれる買人が買い集めて、山形の花市に持っていって加工する。
享保の頃、京都の花問屋が生産地で直接買い取りをはじめた。
そのころ、生産者農家も、自分の庭で花餅をつくるものが増えてきた。
明治初年、化学染料が輸入され出した。
・
・・・
「奥の細道の旅」 講談社 1989年発行
まゆはきを俤にして紅粉の花
芭蕉は五月十七日、山刀伐峠を越えて尾花沢に鈴木清風を訪ね、十日間滞在。
手厚いもてなしをうけて二十七日に立石寺に向かった。
この旅の途中で「紅粉の花」が一面に咲いているのを見て詠んだものであろう。
季語「紅粉の花」は夏五月。
婦人が白粉をつけたあとの眉を払う化粧道具である眉掃きを連想させるような形状で咲いている紅粉の花は、
まことに可憐で美しい、の意。
本文では、清風の人柄を賞し、厚遇を謝したあとに発句四句を並べているのだが、
紅花問屋を営んでいた清風に対する挨拶と解することもできようか。
・・・
・・・
「日本詩人選17松尾芭蕉」 尾形仂 筑摩書房 昭和46年発行
「眉掃をおもかげにして紅粉の花」の紅粉花は、『源氏物語』の「末摘花」である。
これらの句々の配列を貫くものは、
奥羽山系の横断を果たすことによって出羽の風土に発見した「古代」への賛歌という発想でなければならない。
・・・