ヒマが大戦末期に国から栽培督促があったのは知っていたが、
学校農園にまで作られていたとは知らなかった。
学校では食用作物に限定でなく、工芸作物も植えていたようだ。
(Wikipedia)
・・・・
鴨方町史本編」 鴨方町 平成2年発行
ヒマの栽培
昭和19年4月20日の町報で次のような通達が出された。
「熾烈なる航空決戦の現下、航空機用潤滑油の需要は益々激増の一途にあります。
のみならず、戦時の繊維資源の確保もまた強く要請されるの現状にあり、
ヒマ栽培運動は、この重点を種子の収穫に置き、茎皮等副産物をも利用する方途のもとに宅地、空閑地、荒地等を利用して,ヒマの大増産を図り、その収穫する種子は軍部に供出し、戦力の増強に資せんとする。」
・種子 常会長より配布
・割当 一戸最低15本、学校は最低20本。
・供出 種子の5倍を献納する。其の他、学校では児童に桑の皮はぎをして、それを集め供出さす。
・・・・
「新修倉敷市史6」
昭和20年4月から航空機の潤滑油の原料になるとヒマ(トウゴマ)の緊急増産に乗り出した。
農家は一戸40本以上栽培するよう割り当てた。
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戦争末期の食糧増産運動
「岡山県教育史」 岡山県教育委員会 昭和49年発行
初等科の児童は対象にならなかったが、それぞれ生産活動に協力した。
乾燥刈り、炭焼き、どんぐり集め、いも作り、豆作り、堆肥作り、
児童の力でできることは協力奉仕した。
運動場の周辺は掘り起こして畑にした。
いもや豆やヒマを栽培した。
ヒマは航空機の潤滑油にするというので、力をいれて栽培し供出した。
児童がバケツを掲げて町に出て、馬糞を拾い集める風景もよく見られた。学校で肥料にした。
・・・・
横江国民学校
「神島史誌」より
昭和18年11月27日 ヒマ繊維を採取、供出
・・・・
(父の話)
昭和19年 ヒマの栽培
下剤じゃ。
茂平にゃあ作りゃあせなんだ。ゆう事をよう聞くところは植えとるが。
(管理人記※戦時中は大政翼賛会より「航空エンジンの潤滑油」として奨励されたとある)
談・2000.8.27
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学校農園にまで作られていたとは知らなかった。
学校では食用作物に限定でなく、工芸作物も植えていたようだ。
(Wikipedia)
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鴨方町史本編」 鴨方町 平成2年発行
ヒマの栽培
昭和19年4月20日の町報で次のような通達が出された。
「熾烈なる航空決戦の現下、航空機用潤滑油の需要は益々激増の一途にあります。
のみならず、戦時の繊維資源の確保もまた強く要請されるの現状にあり、
ヒマ栽培運動は、この重点を種子の収穫に置き、茎皮等副産物をも利用する方途のもとに宅地、空閑地、荒地等を利用して,ヒマの大増産を図り、その収穫する種子は軍部に供出し、戦力の増強に資せんとする。」
・種子 常会長より配布
・割当 一戸最低15本、学校は最低20本。
・供出 種子の5倍を献納する。其の他、学校では児童に桑の皮はぎをして、それを集め供出さす。
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「新修倉敷市史6」
昭和20年4月から航空機の潤滑油の原料になるとヒマ(トウゴマ)の緊急増産に乗り出した。
農家は一戸40本以上栽培するよう割り当てた。
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戦争末期の食糧増産運動
「岡山県教育史」 岡山県教育委員会 昭和49年発行
初等科の児童は対象にならなかったが、それぞれ生産活動に協力した。
乾燥刈り、炭焼き、どんぐり集め、いも作り、豆作り、堆肥作り、
児童の力でできることは協力奉仕した。
運動場の周辺は掘り起こして畑にした。
いもや豆やヒマを栽培した。
ヒマは航空機の潤滑油にするというので、力をいれて栽培し供出した。
児童がバケツを掲げて町に出て、馬糞を拾い集める風景もよく見られた。学校で肥料にした。
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横江国民学校
「神島史誌」より
昭和18年11月27日 ヒマ繊維を採取、供出
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(父の話)
昭和19年 ヒマの栽培
下剤じゃ。
茂平にゃあ作りゃあせなんだ。ゆう事をよう聞くところは植えとるが。
(管理人記※戦時中は大政翼賛会より「航空エンジンの潤滑油」として奨励されたとある)
談・2000.8.27
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