しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

本庄重政

2021年05月04日 | 銅像の人
場所・広島県福山市松永町   JR松永駅前


本庄重政

本庄重政は福山藩主水野氏の家臣本庄重紹の嫡子に生まれたが、
家督を弟にゆずり、江戸に出て兵法を学んだ。
島原の乱に従軍し戦功をたてたのち、現在の松永町高須に隠棲した。
福山城下に出て藩の子弟に兵法をおしえ、さらに、
干拓事業を指導し、1656年には柳津沖に新田を、
翌年福山湾沖の深津に干拓を完成させる。

1660年から藩営工事としての松永干拓に着工し、近郊の農民たちを動員し、まず堤を築いて塩場をひらき、
1667年役40ヘクタールの広大な塩田を完成している。

福山藩では、それまで中世的な揚浜塩田によって塩の需要をみたしていたが、
松永塩田においてはじめて生産性の高い入浜式技術が採用された。
重政は播州赤穂の大石頼母助(内蔵助の父)と親交ふかく、赤穂からの技術を取りいれたようだ。

1676年71歳で死去。
1831年彼の屋敷跡に本庄神社が建てられた。

塩田ができて以後300年、松永の塩は地方産業として発展したが、昭和35年松永塩田は廃止されることになった。


「広島県の歴史散歩」  広島県の歴史散歩研究会  山川出版社 1976年発行







本庄重政

吉浜新田、生江浜新田などを手がけたと伝わる。
「金浦探訪」  金浦歴史研究会  平成22年発行





撮影日・2013年1月7日


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