しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

満州事変と爆弾三勇士

2024年07月28日 | 昭和元年~10年

36人が各3人1組となって導火線の点いた爆弾かついで敵の鉄条網へ向かった。
ところが、そのうちの1組が途中でこけた。
それを見た隊長は、「戻るな!」と命令。
それで戻れず3人は爆死した。


その二日後の新聞記事。
隊長「国の為に死んでくれ」
隊員「皇軍万歳」
と叫びつつ3人は壮烈無比なる戦死を遂げた。


新聞と同時に国民は熱狂した。
新聞、ラジオ、芝居、銅像、歌、玩具、雑誌、映画に、
軍神であり英雄であり知らぬ人のない著名人となった。

子どもたちは”三勇士ごっこ”で遊び、
運動会では”三勇士競争”。


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三人で爆弾をかかえた勇士のことは、
(我が家では)戦後もつづいた。
母はよほど感動していたのか、
小学生である管理人に何度も同じ話を聞かせてくれた。

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(Wikipedia)

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「在郷軍人会」 藤井忠俊 岩波書店 2009年発行


爆弾三勇士


軍部は鉄条網爆破の三人の死を誇大に報道することになった。
この三兵士は爆弾三勇士、あるいは肉弾三勇士と呼ばれるようになった。
そして、新聞紙が別々にたたえる歌を募集、競作になって三つの歌ともに国民に歌われるようになった。
なかでも有名になったのは当時詩壇の長老、与謝野鉄幹の作詞「爆弾三勇士」(『東京日日新聞』選定)である。
そして 劇化されて上演される。
やがて、銅像もつくられる。
日清戦争の木口小平、日露戦争の広瀬中佐(海軍)、 橘中佐(陸軍)につぐ昭和の軍国美談になった。
戦場の激戦が連日報道されると、銃後が湧く。
緊張もひろがる。

愛国号献納運動は上海事変の戦況報道でさらに拡大した。
ほとんどの飛行機献金はこの上海事変期間中に飛躍的に伸びた。
実際に上海戦では航空機の動きが目立ち、両軍の空中戦闘もあった。
それが銃後に反映されたのである。

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「在郷軍人会」 藤井忠俊 岩波書店 2009年発行

 

新聞の役割

もう一つの慰問金運動については、新聞の役割がもっとも大きかったことを認めておかなければならない。
新聞は一方で戦況を伝えて戦争をあおる役割を果たしつつ、
多数の一般市民を献金に動員した。
その献金の届け先は陸軍もしくは海軍で、その取扱いにあたっては在郷軍人会の全国組織が利用されたわけである。
こうして、新しい戦争イベントの中に在郷軍人分会は地域の大衆の一部分として、また在郷軍人会の全国ネットの枠組みの中での役割をえたというべきであろう。
こうして、この時期、在郷軍人会は銃後の要に位置するようになった。


映画の役割

また、この時期の”情報”においては映画の役割にも注意が必要である。
三原分会が活動写真会を開い観衆を集めたように、
在郷軍人会は国防思想の普及宣伝に映画(活動写真)を利用した。
講演と同じくらいに在郷軍人会本部は映画フィルムを貸し出している。
1931年以後年々増えて、1934年には1434回に及んでいる。
映画の利用は大正末期から始まっていた。
満洲事変の原因の一つにあげられる中村大尉事件が開戦後すぐに映画化されていたのに驚かされるが、
当時の映画製作は短期間で事件の余韻のあるうちに上映された。
1932年に入って上海事変が起きると、 爆弾三勇士の劇化映画化もそのスピードで行なわれている。
そして、“活動写真”でありさえすれば大衆は先を争うように見に行った。
大衆動員の大きな道具になったのである。


銃後の形成

新聞社の慰問献金は1931年10月16日の『朝日新聞』(東京・大阪とも)社告ではじまったようである。
2ヶ月後には約23万円、さらに半年後には約45万円に達した。
これが満洲事変の銃後形成に果たした役割は大きい。
愛国機献納運動の嚆矢(こうし)は10月下旬、東京市駒場青年団の10銭拠金だが、軍用飛行機献納運動は府県と大都市の地方行政機構に献金の主導権が移った。そうでなければ実現不可能であった。 
こうして満洲事変ではじめて「銃後」の形成をみた。

満洲事変の銃後は上海事変の勃発によって全国的に固まった。
上海事変は、最初、1932年1月28日の中国正規軍と上海駐留の海軍陸戦隊との武力衝突で始まった。 
陸戦隊は苦戦をつづけ、ついに陸軍の出動になる。
まず、金沢の第九師団、ついで宇都宮第一四師団、善通寺第一一師団が派遣される。 
満洲に送られた兵力より多い出動になった。
全国的な動員を見たわけである。

上海に上陸した最初の陸軍兵力、第九師団はすぐに激戦にさらされた。
攻撃路を開くため鉄条網の爆破が必要になり、
爆薬を抱いた三人の工兵がその身もろとも突っ込んで爆破に成功したという兵士の美談。


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「福山市史 下」 福山市 昭和58年発行


満州事変下の福山 

昭和6年9月19日早朝、市民の耳目をいっきょに外に向けさせる事件の発生が伝えられた。
関東軍が南満州鉄道の一部を爆破したいわゆる柳条溝事件で、以後15年間に及ぶ戦。
満州事変、日中戦争・太平洋戦のきっかけとなった。15年戦争という。

事件が発生すると、これを支持する支配層・軍部の意向をうけて、
新聞・ラジオがその全機能をあげて写真展・映画会・慰問袋・恤兵金・肉弾三勇士などのキャンペーンを行なったので、
福山においても、そうした動きが活発になった。
9月24日、朝日新聞社の主催で市内3ヶ所(大黒座、盈進商業、誠之館)で開催された満州事変映画会には、 
木曜日の昼間であったにもかかわらず、2.000人以上の観客がつめかけ、夜間も昼間に劣らぬ盛況で、 
「銀幕に映る我軍の活躍に拍手の波」がわき起こったといわれる。
新聞やラジオによって中国への敵愾心を燃やしていた市民は、じかに「我軍の活躍」ぶりに接して狂喜したのであろう。
こののち陸軍省が全面的にバックアップした写真展・展示会排日資料展や、
第五師団・四十一連隊・在郷軍人会などが主催した軍事・国防講演会などが開かれるが、
福山公会堂に5.000人以上を集めたのをはじめとして、以後各地でも満員の聴衆を集めたといわれる。

11月末になると、「満州事変号外を生徒へ!学童へ!」という目的で、
福山師範、誠之館・盈進中学、福山・門田・増川高女と東 ・西・南・霞小学校に、アサヒ学校ニュース板が作られ、
「係の先生が平易に解説して、児童にわかりやすく書いて効果を挙げ」るようになった。

3円の為替を呉海軍鎮守府へ送った西小学校の一児童の「美談」を大きく報道した。
満州事変は、国民の間に起こった恤兵金・慰問袋などの慰問運動をはじめとするさまざまの行為が「美談」に仕立てられたことで、きわだった特色をもっている。
こうした「美談」は、子どもから大人までも巻き込み、
学童が小遣いを貯えたり、麦稈真田を編んで行なった献金や、在郷軍人会福山南分会の「タッタ一銭国のため」運動などが相ついで新聞に報ぜられている。
また、第五師団や在郷軍人会の首唱により、兵器献納資金の酸金も全国にさきがけて行なわれ、67万円を集めて軽爆撃機4機が献納され、
うち一機は「第33福山号」と命名された。

慰問袋は愛国婦人会や在郷軍人会・新聞社などが扱い、
日用品のほか子どもたちの図画や作文がそのなかに入れられた。
そのすさまじさは、軍部が「物品より金銭を希望」したほどであった。

このほかさまざまのことが「美談」に仕立てられた。
春日小学校児童が「寒気と戦う満州軍の困苦をしのび、この冬には足袋・手袋などの防寒具を一切用いぬ」と申し合わせ、 
金江村・本郷村の少年団が松毬を拾ったり孤を作ってえた金を寄付し、
増川・門田高女生徒が千人針やお守り袋を送付し、出征・看護婦従軍志願者が血書を提出して志願 したことなどが、
「自発的=国家主義!懸念ヲ発揮」した「時局美談」として、市町村の手で宣伝された。

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