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しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

満蒙開拓団③浩良大島開拓団

2020年06月30日 | 昭和11年~15年
笠岡市史には「浩良大島開拓団」は昭和20年8月23日、博多に上陸。
と記されているが、
いかにいっても、8月14日に佳木斯を出発し8月23日博多上陸は無理がある。博多は昭和21年だろうか?

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「笠岡市史第三巻」平成8年 ぎょうせい発行


零細な農地と、低い生産性の苦悩で村長は
「もっと多くの農業生産によって国家にご奉公せねばならぬ。
急々にも300戸分村を満州に行うの要あり」
昭和15年11月、分村決議をした。

昭和16年1月16日、先遣部隊20名が満州東北部ソ連国境に近い佳木斯(じゃむす・ちゃむす)の北西に位置する所に出発した。







昭和16年4月1日、
「第十次浩良大島開拓団」とした。
先遣隊20名は8名に減じた。

昭和19年5月5日、国民学校ができた。生徒数高等科までで9人。
赤痢が大流行した。
後続の団員募集は、寄島・里庄・鴨方にまで募集した。

昭和20年8月ソ連の参戦により17才から45才までの男性は、根こそぎ動員された。
8月14日から避難を始めた。
団長はハルピンに拉致され、取り残された老人婦女子は、幼児のハシカ、死亡続出と苦難を克服しながら南下して、
新京に着いたとたん発疹チブスが流行し、長い長い苦難の道程を経て、8月23日博多に上陸。大島村に帰着した。

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満蒙開拓団②阜新芳井開拓団団長

2020年06月30日 | 昭和11年~15年
「満洲開拓回顧誌」小谷鉄雄編集 ぎょうせい 平成3年発行 より転記。

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元阜新芳井開拓団団長 山本隆之

第十三次阜新芳井開拓団の概要
満蒙開拓団は昭和7年を第一次とし終戦の昭和20年第十四次をもって終末を告げた。
芳井分村開拓団は昭和19年2月現地入植から、昭和20年8月15日終戦、収容所の生活を経て
昭和21年5月14日現地を離れ、葫蘆島乗船、5月31日博多上陸、昭和21年6月2日芳井町に帰り、
満洲開拓団としての集団生活は解かれたのである。

昭和17年夏、
1・芳井村分村が町会で分村移住が議決された。
2・入植地も決定、開拓地400町歩確保、200世帯の分村開拓団を編成する。
3・募集は芳井町を中心に、後月郡内から希望者を募集。
4・できるだけ中堅青年および家族で結団する。
5・本年中に、一部入植するのが国との約束になっている。
6・その他

幹部5人を決定
幹部訓練に茨城県内原の満蒙開拓幹部訓練所へ行く。
家族の生活、入植のこと、団の編成等々
気候風土、人情道徳、言語、習慣、食生活に至るまで未知の世界である。
我が開拓団は農業開拓団である。作目・農耕方式そのすべてが第一歩であるだけに、
不安と疑問の多い渡満となった。

紀元節の入植式
昭和19年2月11日、形ばかりの入植式を挙行した。
五族協和の先兵となり、安住の楽土満州国の平和のために、第二の故郷満洲に骨を埋める覚悟で
開拓の大事業に挺身しようと語り合った。

満洲開拓 心得帳
1・日本民族であるという誇りを持ち大和魂の精神を失ってはいけない。
2・生命を尊び死を怖れず皇国のために殉じる覚悟を忘れてはいけない。
3・異郷の地での開拓であるから他民族と仲よく協調しなければならない。
4・他人に親切にする。楽は人に譲り苦は自分で引き受けるように努める。
5・規律を重んじ命令に従い、我が任務は責任をもって遂行すること。


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池の水、全部抜く①

2020年06月30日 | 農業(農作物・家畜)




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岡山県中央町誌(民俗編)


コイトリ


一般には「コイトリ」あるいは「フナトリ」という。
最後の水やりは9月中旬で、
秋に池が干上がった後、3年に一度くらい「コイトリ」をした。
池の修理とヘドロ取りを兼ねるものであった。
フナはこの地域の貴重なタンパク源で、しかも「無塩」であった。
当時、
行商人から買うのは塩サバや塩アジの干物などであり、生ものを食べる機会は少なく貴重であった。
フナはザルに入れて干したり、内臓をとって串刺しして炭火で焼き、干物にした。
コイは泥臭く、泥をはかせてから料理をした。
タニシは身をとって佃煮にして食べた。
エビもおいしかった。

コイの放流
6月に田植えをした後,一反当たり2cmくらいの稚ゴイを100匹ほど放流する。
田の「水落とし」をする9月中旬には、20~30cmに育ったコイが田の溝に集まる。
一反あたり30匹が育つ。
育てたコイは池に放流され2~3年かけて大きくなる。

ウナギ
ウナギを追いかけ掴み採りする姿が面白くて見物に来る人も多かった。
池の土手は見物客でいっぱいになった。

お祭り騒ぎであり、地区をあげての行事となった。

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金光町史では毎年の行事のように書かれている。
茂平でいえば「イナとり」と似ている部分が多い。

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「金光町史・民俗編」 金光町 平成10年発行



溜め池と漁撈

金光町は、備中ひでりに対応するために灌漑用の溜め池が多く築かれた。
溜め池の築造者はいずれも地元の庄屋である。



横池
秋の稲刈り前に溜池を干して魚とりをする。
水の少なくなった溜め池で魚を突いたり、魚をたたき切ったり、網ですくって補採する。
魚取りに使うテダマ網にも大小があり、大きいのは径70~80センチ、柄の長さ1.5m、網目30目ぐらい、自製の場合が多い。
魚とりには、昔は触れ(通知・しらせ)を出していたが、現在はクチコミで、金光町近在の人が集まってくる。
町民各自が漁具を持ってくる。
池水を抜く9月上旬には溜め池から流れ出る溝川に網を張ったり、溝川にドジョウ網を設置して、池から出てくる魚を捕る。
魚とりの触れには、期日・料金なで決められている。
池の世話役が胴元になる。

枡池
魚とりをウオトリ、イオトリなどという。
コイ、フナ、ウナギ、雷魚、カメなどをテダマ網、ウナギカキなどでとる。
どじょう籠、ウナギ籠も池に沈める。

金地池
世話役をつくり、世話役を胴元という。
魚とりには入札をし、入漁料をとって許可をしていた。
当日には、テダマ網、ウナギカキを持ってフナ。コイなどをとる。

中池
池干しではウナギ、コイ、フナ雷魚などをとる。
池を干すには地主の許可をもらい、魚取りをする。
とった魚を地主のところに持っていくと、池の水換え賃、池干し料金として地区民に金を渡してくれていた。
溜め池は8月10日ごろまでは水をためて、9月中旬には池水を抜いていた。
ちょと照り込み、溜池の水が少なくなるころ、魚とりをする。
網はテダマ網、三角網、投網などである。
網は夏の農閑期に手入れをしておく。
柿渋で網を染めるのも、この時期である。網を染めるのは山柿である。
溜め池の水は命水(いのちみず)といって大切にしていた。
魚とりの当日には、近在の農民が溜め池のところに集まり、
始まる時間を待ちわびる光景がみられた。


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