と記されているが、
いかにいっても、8月14日に佳木斯を出発し8月23日博多上陸は無理がある。博多は昭和21年だろうか?
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「笠岡市史第三巻」平成8年 ぎょうせい発行
零細な農地と、低い生産性の苦悩で村長は
「もっと多くの農業生産によって国家にご奉公せねばならぬ。
急々にも300戸分村を満州に行うの要あり」
昭和15年11月、分村決議をした。
昭和16年1月16日、先遣部隊20名が満州東北部ソ連国境に近い佳木斯(じゃむす・ちゃむす)の北西に位置する所に出発した。

昭和16年4月1日、
「第十次浩良大島開拓団」とした。
先遣隊20名は8名に減じた。
昭和19年5月5日、国民学校ができた。生徒数高等科までで9人。
赤痢が大流行した。
後続の団員募集は、寄島・里庄・鴨方にまで募集した。
昭和20年8月ソ連の参戦により17才から45才までの男性は、根こそぎ動員された。
8月14日から避難を始めた。
団長はハルピンに拉致され、取り残された老人婦女子は、幼児のハシカ、死亡続出と苦難を克服しながら南下して、
新京に着いたとたん発疹チブスが流行し、長い長い苦難の道程を経て、8月23日博多に上陸。大島村に帰着した。