しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

最後の日ソ戦・・・その1

2020年06月10日 | 占守島の戦い
「一九四五年夏 最後の日ソ戦」 中山隆志著 平成7年 国書刊行会発行 より転記。



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千島は地理上、歯舞・色丹、南千島、中千島、北千島に分かれる。
大小30余の島々からなり、総延長1.200km、
総面積10.395平方㌔。岐阜県の面積に等しい、最大の択捉島は鳥取県並み。
火山質の列島で、海岸線は断崖が連続する。港湾を得にくい。
北千島は身長以下のハイ松類が密生している。
列島最北端の占守島は伊豆大島の2.5倍の面積で、おおむね平坦な段丘状を成している。
夏季は濃密な海霧が発生する。
行政上は北海道占守郡占守島で、北海道根室支庁の直轄となっている。

千島の住民は常住するのは南千島以南に限られていた。
終戦の頃、国後島7.300人など計20.000人に達していた。
北千島はわずかな定住者だったが、
世界有数の漁場をひかえているため、季節労務者が夏季盛漁期には20.000人に達した。

千島はソ連にとっては太平洋への出口を遮断していていた、位置が悪かった。

1944年2月18日、第五方面司令部の編成が発令され、
北方軍司令官樋口季一郎中将が司令官に発令された
同時に、
千島方面の作戦に専念させるため第27軍司令部が編成された。
方面軍は、千島及び北海道東部地区に来攻する米軍にたいして随時反撃できる態勢におくため、第7師団を道東へ移駐させた。
第77師団は勇払平野の沿岸築城を行うことになった。

大本営は本土決戦準備にあたり、
1945年1月22日、
樺太、千島、北海道はすべて第五方面司令部が防衛を担任することになった。

1945年春、第91師団の任務は、
幌筵海峡周辺及び占守島確保に改められた。

さらに5月、配備を変える発令があった。
幌筵海峡を堅固に保持し、敵の海峡利用を破砕する。

歩兵第73旅団(歩兵四個大隊基幹)は峡東地区隊となり、
歩兵第74旅団(歩兵四個大隊基幹)は峡西地区隊となり、敵を撃滅する。
占守島では一部を持って国端崎、長崎東地区に陣地し、極力敵の内陸進攻を阻止する。

1945年8月15日、
連日行われていた米軍機の空襲は午後からなくなった。

1945年8月17日、
第91師団長堤中将は、陸海軍の大隊長以上及び日魯漁業を師団司令部に集めた。
「万一、ソ連が上陸する可能性がないでもないが、戦闘を行わず、爾後の命令指示にしたがい行動せよ」
終了後に、第五方面軍から
「一切の戦闘行動停止、
やむを得ない自衛行動を妨げず、
その完全徹底時期を18日午後6時とする」
という指示を受領し、直ちに各部隊に伝達した。
同日、師団命令により一切の築城は中止され、兵器処分のために信管をはずしたり、海中投棄やその準備が行われた。

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