しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

城見小学校の様子

2020年06月11日 | 城見小・他校
学校
子供は、ほぼ100%城見小学校へ入学。
稀に城見よりもレベルが高い笠岡西小や東小へ行く。
中学校は金光学園に進学の人がいる、残りは全て金浦中学校。

先生
男女はんはんくらい。
大津野村と笠岡市内。
徒歩と自転車通勤。バスや自家用車はいない。
代用教員が何人かいた。「ダイヨウ」と呼ばれていたが、その言葉は、子供心にいい響きでなかった。


通学
保育園から小6まで列で学校へ行く。
茂平の場合、銅山、西ノ谷、青木、旗涯地などに分れ、男女別々に出発。
学校が近くなると茂平や大冝や用之江の列も集まり、一応壮観な感じがしていた。


順番
クラス番号は生年月日順、整列は背が高い順番。

男女
机は二人で一つ、男女で一つだった。男女同席。


便所
城見小の便所は怖かった。


廊下の掃除
長い廊下を米ぬかの袋で、端から端まで一直線に走って拭いて、ぴかぴかにしていた。


学科
算国理社と音楽・体操・図工だったかな?
5年生までは、全科目を担任の先生が教えていた。
6年生になって、一部科目を6年生の担任同士で取り替えた。


授業
黒板に書く。説明する。本を読ます。生徒に質問する、生徒が答える。
テストをする。
宿題を出す。


行事・正月
学校へ行って、講堂で校長先生の訓話を聞いて、担任の先生から菓子袋をもらって帰宅する。それだけ。
せっかくの正月を半日潰され、毎年不満に思っていた。
校長先生の訓話に必ず「年の数だけ雑煮を食べた人は手をあげてください」があった。


行事・学芸会
学芸会は二日間あった。
大冝を二班に分けて、用之江と茂平にはんぶん配置した。
歌あり、芝居あり、楽器アリ。
暗幕を張って、照明を使い、舞台は楽しかった。
席の中央付近に写真屋がいて、写真を撮っていた。
三学期は学芸会に始まり、終わるとその学年が終了していた。


行事・入学式
6回見たり、経験しているけど、ほとんど記憶にない。

行事・遠足
旅行は楽しかったけど、歩くだけの遠足は結構しんどかった。


行事・運動会
秋の最大の行事。
準備の訓練を何度もし、一日かけての予行演習もあった。

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少年雑誌(漫画雑誌)を買いに

2020年06月11日 | 城見小・他校
少年雑誌(漫画雑誌)を買いに

年に2~3度、少年雑誌を買いにいくことがあった。
行先は大門駅前の商店街(という程ではないが)の小さな雑貨店だった。
行くのは3人くらい。
自転車に1人、その前を走る人、その後ろを走る人。家で待機が1~2人。
3人で出発。
まず坂里峠を目指す。
峠からの坂道は山賊が出るという場所があるので、特にスピードで坂を下る。
野々浜の山際の道を大門駅へと向かう。
お寺の踏切を渡ると、来たなあという感じになる。
駅前の小さな店のガラス戸を開けて、少年雑誌を選ぶ。
行く前から決めているが、小さな店なので売り切れて無いこともあった。
買ったら、同じ道を帰る。
坂里峠を越えると茂平。
家まで帰ると、買った人が本を読む。付き添いと、待機していた人は付録の本を読む。
そうして、全員が本と付録をすべて読み終わると、
「本を買いに行く」ことが終わったことになった。

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宮ノ端の三角ベースボール

宮ノ端は茂平の少年の草野球場だった。
内野と外野の間に道が通り、内野は岩凹もあり斜面にもなっていた。
いちばん惨めが、キャッチャーが後逸すると葦の沼に入って球を拾う必要があった。
それでも貧しい昭和の茂平の少年には楽しい場所だった。
両チーム併せてもグローブを持っている子は1~2名。
バットも1~2本。
ボールも1~2個。
バットやグローブを親に買ってもらうということは、遊びの時は全員の共有物になっていた。
低学年の時は、バットは山の木を削ったものを使っていた。
手の器用な少年が作ったバットだが、円形ではあるが、不自然そのものの形をしていた。
グローブは簡単だった。肥料や飼料の空袋を折ればいい。折り方も簡単だった。
上級生は素手が基本だった。
松の大木がホーム近くにあり、
暇人が「なんと申しましょうか・・・」と松の木に登って、一人で高いところからラジオ中継をしていた。

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運動会は秋に三度あった


運動会は、城見小学校の校庭で三回あった。
小学校の運動会。
地区の運動会。
青年団の運動会。
祭りと並ぶ、秋の大きな楽しみの行事だった。

小学校の運動会は、小学校と保育所が合同。子供専用。
地区の運動会は、城見公民館が主催。子と親と祖父母の三世代。
青年団の運動会は、城見青年団が主催。青年団の専用。
運動会はどれも盛大だった。
子供にとっては、
小学校は出番が多い。
地区は出番が少なく、娯楽として楽しめる。
青年団は出番がないが、主催者が若者で勢いがあって、見て楽しかった。

青年団のプログラムの最後はマラソンで(校庭を10周くらい)、いつも”浜のKちゃん”が優勝していた。
特にラスト一周はすごかった。
そうゆう”浜のKちゃん”でも、笠岡の大きな大会に出ると優勝はできないという噂だった。
”浜のKちゃん”は好漢、絵に描いたような善人だったが、労働災害のため、40才位の時に亡くなられた。


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金浦中学校の修学旅行

2020年06月11日 | 昭和36年~40年
中学2年生が終わる3学期頃のことだったと思う。
行先は、
毎年同じ、京都・大阪。
2泊3日の旅。
行先も大阪城と清水寺と奈良の大仏は共通だが、それ以外は毎年すこし変化があったように思う。

汽車で行かずバスで行った。たぶん最初か二度目のこと。
二つ上の兄は汽車で行っている。

観光地は、(記憶の内で)
京都は金閣寺と清水寺と平安神宮。
大阪は大阪城。
奈良の大仏と奈良ドリームランド。
ドリームランドが一番楽しかった。

京都では映画スターに会えるのではないかと淡い期待をしていた。
当時はまだ、東映チャンバラ映画は流行っていた。
残念ながら、そうゆう偶然はなかった。

泊ったのは京都と奈良の木造旅館。
お土産に清水寺で宇治茶を買ったような記憶がある。

それ以外の行先や、食べ物は覚えていない。

とにかく、寝る前の二夜連続の壮絶な枕合戦の印象が強い。
思い出は”枕合戦”につきる旅行だった。


追記・
城見小学校にK先生という絵画の上手な教員がいた。
先生は教員を止めて、画家になるため京都に行った。
京都の修学旅行先の宿に、k先生が訪れて何年かぶりに会うということがあった。


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