しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

おじいさんは、山へ柴刈りに②(燃料集め・野々浜むかし語り)

2020年06月27日 | 暮らし
茂平は果物どころで、クドにくべる木は果物の木で、剪定や老木を割り木にしていた。
木を割るのは祖父の仕事だった。
父が山から丸太をもって帰るのは、シイタケの栽培用くらいだった。


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「野々浜むかし語り」野々浜公民館 1991年発行より転記

燃料集め

日々の炊事の燃料は、木の葉や薪を使い、それをどの家も自給自足していた。
持ち山がある家は、わが山の木で割り木をたくさんこしらえた。
しかし、持ち山が無いものが大方だから、毎日山へ入って木の葉、
それも主に松葉を集めた、昔の女の重要な仕事で、山に入らぬ日は無かった。

風が吹いたと言えば、次の朝には夜も明けぬうちから起き出していったもんだ。
だから、その頃はどの山もきれいだった。

はるばる沖山から茂平にかけて在った大きな山まで取りに行く。
野々浜の他に津之下の者もこの山に来ていた。
この山は元は茂平の人の共有の山で、いつの頃か引野の人がまとめて買った。
それで引野の人は来ず、この辺のみんなが木の葉を集めにおしかけた。
この山は松浦組が砕石のため崩して、今は大方無くなってしまっている。

荒神山は毎年伐採しては氏子で分け、それを燃料にしていた。
伐採する範囲を決めると氏子が総出で山に入って木を切る。
各自が家に持って帰り保管しておき、少しづつくべ木に使う。
そして翌年は次の範囲を切る、ということを繰り返していた。

燃料は自分で自給自足せねば日々の飯も炊けなかった。

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おじいさんは、山へ柴刈りに(燃料集め・金光町史)

2020年06月27日 | 暮らし
むかしむかし、おじいさんは山へ・・・、おばあさんは川へ・・・(桃太郎)

茂平では川の洗濯を見たのは、おしめ。
山への柴刈りは、ほぼ全ての家庭で昭和30年代の中頃まで続いた。日常風景だった。

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「金光町史・民俗編」 金光町 平成10年発行 

山仕事
山仕事は、麦播きの終わった12月から、麦の手入れが始まる3月ごろまでの冬の仕事である。
この間に1年分の焚き物を確保し、一部は売りに出した。

自由採取
林野に所有権はあるが、次の物は慣習として、自由に採取しても叱られることはなかった。
落ちている松かさ、枯れ枝を集めたり、
シャシャキ、
ワラビ、ゼンマイ、木の実。

コノハナデ
松の落ち葉を木の葉(このは)とかマツゴという、自由採取のところもある。
共有林では、風が吹いたら女の人は誘い合って掻きに行った。
炊きつけに便利で売るに行く人もあった。
熊手で搔き集め籠に入れて運んだ。

下刈り
林の手入れとして、林床に生えた雑草木を刈りとって掃除する作業。
町内では、肥料や飼料には使っていない、自家用燃料にした。

カケギと割り木
間伐で伐った木を、割木に割るか、カケギとして売った。
割木は丸太を1尺2寸に玉切りし、割木とした。自家用の余りは売り出した。
クドで使う、
家の軒下、壁際、縁の下などに積んで保存していた。

松葉
松の葉の付いた小枝を適当な長さに切って束ね、担ぎ出した。
自家用の、焚き付け用。

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