しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

資生堂の『椿会』

2020年06月02日 | 暮らし
資生堂の『椿会』

管理人が高校生の頃、化粧品会社の資生堂がMG5(エムジーファイブ)という男性用の化粧品を発売した。
それまで、化粧品とは女性のもので、男性が使うものではなかった。
資生堂は、
若い女性が増える時代、日本が豊かになる時代を見越して、青田刈り同様に学校を卒業する女性を”椿会”という組織で囲い込みをしていた。
当時の資生堂は、時代をリードする企業だった。
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2020.6.1 姉の話

中学校の時、
進学組と就職組があった。
就職組の3年生で女性を、セールスの人が学校の許可を得て放課後に、
教室で講座をしょうた。
それに出ると、ちっちゃい袋の中に化粧品や化粧水や口紅がはいっとった。それをくれるんよ。

高校の時、
メイン(資生堂のターゲット)は高卒(の女性)よね、高校にきょうた。
就職の人も進学の人も、気になる人は行きなさい、ゆう感じじゃった。
そこで資生堂のモデルの人が座り、その人に塗っていく。
きれいな人がくるので、よけいきれいになりょうた。
ええ櫛をくりょうた。今の櫛よりいいわ。
椿会に入るような勧誘はなかった。袋の中に申込書があったかもしらん。

卒業後も
化粧品は使ようらなんだ。化粧品をつけたとしても、おとしようを知らなんだ。

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テレビを見せてもらう

2020年06月02日 | 城見小・他校
たかさんの家で、
夏の甲子園・浪商vs法政二高を見せてもらう

尾崎がいる浪商と、柴田がいる法政二高の試合がどうしても見たかった。
前年は柴田の法政二高が勝っていた。
この夏は浪商は雪辱戦であり、事実上の決勝戦だった。
問題は、
どこでテレビを見せてもらうか?
運よくたかさんの家で見ることできた。
浪商の尾崎が打って逆転し、勝った。
浪商の尾崎は甲子園終了後即、東映フライヤーズに入団した。
今でも、プロ野球でもっとも速い球を投げた投手に名前が出る。
負けた柴田は、巨人に入って投手をクビになったが、
野手になって、スイッチヒッターになり、打ち・走り、ON時代に重なりぞんぶんに活躍した。

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となりで、
「半七捕物帳」を見る

となりにテレビを買った。
夜、母がテレビを見せてもらいに行くとき、私を添え物的に同行さした。
ひとつのテレビを何人で囲んでいたのだろう?思い出せない。
となりのおばさんは、炒ったそら豆をテーブルに置いてくれた。
となりでテレビを見るときは、そのそら豆をぼりぼり食べながら見ていた。
偶然なのか?行った時はいつも半七捕物帳だった。
半七は歌舞伎の尾上松緑が演じていた。(←その後、NHK大河ドラマ一作目・花の生涯主演)


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あっちゃんちで、
「栃錦vs若乃花」を見る

近所の同級生、あっちゃんちにテレビが入り、毎日のように見せてもらった。
原っぱで遊んだ後、家に帰らずテレビを見せてもらった。
ドラマでは「鉄腕アトム」(←実写版)と「ナショナルキッド」をよく覚えている。
いちばん人気は大相撲。
栃錦と若乃花の対戦は、いつも手に汗握り、見ている子供たちも右や左に身体が揺れていた。


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城見小学校にテレビが入った

2020年06月02日 | 城見小・他校
城見小学校にテレビが入った

校長先生が皇太子と美智子さんが結婚する話しとテレビが重なるから、昭和34年のことだろう。
たぶん、城見で最初のテレビと思うが、学校にテレビが入った。
学校のテレビは教育の備品で、週に一回教育テレビを見せてくれた。
テレビ室にテレビは置かれ、学校でいちばん貴重品のようだった。
その頃、
テレビ放送はNHK総合・NHK教育と山陽放送と西日本放送が受信できていた。
その頃人気番組は「月光仮面」だったが、一度も見たことがない。

半年ほど過ぎて、学校の下の床屋さんにテレビが置かれた。
大相撲があるときは、ガラス戸越に相撲観戦していた。
勝負の後、民放は分解写真、NHKはスロービデオで差があった。

6年生の時、
日本シリーズが見たくて集団でテレビ観戦した。
先生にぼっけいおこられたが、今思い起こせば、なぜか試合が終わった後での注意だった。
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75年前の学校の臨時休校

2020年06月02日 | 昭和20年(終戦まで)
2020年(令和2年)、新型コロナウイルスのため、小・中・高校が3月~5月の、およそ3ヶ月間臨時休校になった。
75年前にも学校の臨時休校があった。

戦争の非常事体制下、
政府は、昭和20年4月1日から1年間、国民学校初等科を除き休校するすことを決めた。
その時の様子を義母に聞いてみた。当時義母は、芳井町の実業学校の3年生(15才)。

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(談・2020.5.31 義母)

実業に行っとるときは2年間戦争中じゃった。

食糧増産ゆうことで開墾、開墾じゃった。
芋を植えたり、トマトを作ったり、キュウリを作ったり、なすびを作ったり。

田んぼを借りて、そこで
実習ゆうことで、毎日作業服がいりょうた。

町の子は唐鍬をもってけい言われてもなかったろうに、どうやって工面しとったんじゃろうか?

山で芝をなぜて籠にいれて
今日も芝なぜ、明日も芝なぜ
土を掘った芋の苗床に、藁をいれて、芝をいれて、そのうえに学校の屎尿をふりかけて、土をいれて 長靴を履いて踏みゅうた。

勉強はあって昼まで、ほとんど山や畑で、
西吉井(芳井?)の高屋に越す上の畑へいきょうた。

みんな並んで耕して
薩摩芋やこ植ようた。
出来たら負うて戻って、そうゆうことを2年間しょうた。
しんどかった。
もうイヤゆうよんあった。
作った作物は学校からどうゆう販路で、どこにいっとんたんかわからん。

ひとつだけ楽しみがあった。
弁当を野原で食べるんで、弁当の中に「おやつ」をもってくる人や、もっていきょうた。
おやきをしたりしょうた。料理の好きな人は美味しいお菓子系統のもを持ってきてよんでくれる。それが楽しみじゃった。

毎日毎日、目籠(竹の籠)を負うて、唐鍬をかたいで山の畑にかよっていたが・・・(終戦で)・・・、突然に、そうゆうことが無くなった。

(終戦後)
食糧つくるのはいっぺんに止めて、簿記や英語の勉強しだした。
英語が増えた。

百姓せんでようなって、勉強の時間が多くなった。
百姓止めて勉強いっぽんになった。

小山(こやま)の麓に学校にあった。
物理の先生が、その小山に登って授業したり、歌をうたって戻りょうた。
歌のうまい先生で、青空学級じゃった。

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