しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

シベリア大使・加藤拓川②松山市長時代

2020年06月20日 | 大正
「加藤拓川」成沢栄寿著 高文研 2012年発行 より転記。


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1922年5月26日、拓川は松山市長に就任した。
「大物」「田舎」市長である。
彼はすでに食道閉塞を病み、ろくに食事もとれないでいた。
郷土の知人の強い要請に受諾せざるを得なかった。

拓川の市長在任期間はわずか9ヶ月、しかも長期入院や中国旅行を挟んでいる。
彼が在任中に手掛けて実現させた懸案は、
松山城跡の払い下げがある、
(陸軍省から久松家が三万円で払い下げを受け、市に寄付)
が、その中心は私立松山高等商業学校の創設である。


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拓川の市長就任当時、高商設立準備活動は暗礁に乗り上げていた。
拓川は大阪へ赴いて親友の、松山出身の実業家・新田長次郎(温山1857~1936)を訪問し、
援助を申し入れた。
新田は私財50万円を投じて県の補助金を肩代わりし、文部省が指示する積立金を出すほか、
先々の学校経営費の不足も引き受けると約束し、設立を激励した。
このようにして1923年5月、松山高等商業学校が創立したのである。



(大正13年)松山商科大学五十年史


設立後、
新田は学校経営にいっさい口出しをしなかった。
同時に、卒業生を自社で採用しないことを条件とした。


第二次世界大戦後の学生改革で、松山商科大学として発足する際にも新田家が資金協力した。



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1922年11月12日、病院の制止を振り切って拓川は退院した。
11月22日に、摂政(皇太子)裕仁が松山に来るからである。
22日、三津浜港からパレード。
24日、謁見。好古が最初で、拓川が次いで、以下控訴院長、検事長、陸軍中将・久松伯爵、県知事、旅団長とつづいた。
これは位階勲等が高かったからである。
1923年3月26日、辞表提出して、不帰の客となった。

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シベリア大使・加藤拓川①悲劇の大使

2020年06月20日 | 大正

「加藤拓川」成沢栄寿著 高文研 2012年発行 より転記



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第一次世界大戦が終結した1918(大正7)年11月、
パリ講和の首席特命全権委員の西園寺公望と原敬首相に要請されて、加藤拓川は代表団に加わった。
日本の最大の目的は山東省の旧ドイツ権益の継承であった。
連合国の一員である中国は返還を要求し、会議は紛糾した。
日本の継承は認められたが、中国は調印を拒否した。
帰国前、拓川は西園寺から「シベリア派遣大使」を相談された。

1918年8月、12ヶ国連合軍による武力干渉が始まった。
日本は以前から、東シベリア三州(沿海・アムール・ザバイカル州)に反革命のコサックの陸軍大尉セミョーノフらを支援して
傀儡的な親日政権を画策していた。
セミョーノフ軍には日本人「義勇軍」が多くいた。

1918年8月12日、ウラジオストクへ上陸、ついで沿海州、ザバイカル方面へ発信した。
日本軍の「快進撃」は大戦景気と投機による米価高騰を招き、米騒動が拡がり、寺内内閣は9月退陣した。

原敬内閣に代わった。
外相は元駐露大使の内田康哉で、彼は革命の必然性を知っていた。
陸相には田中義一が就任した。
1918年10月末、
干渉戦争に動員した兵力は70.000人を超え、米国から抗議を受けた。

1918年11月18日、西シベリアの中心都市オムスクに旧ロシア帝国海軍中将コルチャックを最高執政官とする
「オムスク政府」(シベリア政府)が成立した。
これにより幾つかの反革命勢力が統合された。
原内閣は12月8日、
米英仏三国と協調を図る立場から、コルチャック政権に同調する。
米国の勧告により34.000人削減(第二次削減)を閣議決定した。

1919年3~4月、日米英仏軍の支援を受けたコルチャック軍はウラル戦線でボルシェビキ軍を破り、
首都モスクワへ進撃する勢いを示していた。
農民パルチザン軍の攻撃にさらされていたコクチャック軍は、4月下旬すでに敗北し始めていた。
5月には大敗。
そのためセミョーノフと和解させた。
軍規の乱れ、盗賊まがいの軍隊で農民の反感や抵抗を受けていた。
6月後退をつづけた。

1919年6月31日、原敬の日記には
拓川がシベリア派遣特命全権大使への就任要請、即日受諾が書かれている。
いわゆる「シベリア出兵」真っただ中で彼の地の外交責任者に「内定」したのである。
8月12日、拓川はシベリア派遣大使に就任。

9月2日、拓川管下の在哈爾浜総領事の外相あて電報には、
「ウラル戦線のコルチャック軍は言語道断にして、更に戦意なしというも可なり」

拓川は、1919年9月12日敦賀を出港。23日、沿海州都のウラジオストクに入港。
10月2日ウラジオから列車で哈爾浜・満州里を経由してチタに寄り、9日にイルクーツクに着いた。
オムスクに到着したのは13日である。
10月17日にコルチャックと会見し、親任状を提出した。
しかし、オムスクは革命軍の攻撃で陥落寸前であった。




10月31日、天長節の祝宴を主催し、「首相」や「蔵相」や英国の代表者らと来会した。

11月6日、英仏の代表者らと撤退について相談。
11月10日朝、大使一行はイルクーツクに向けて出発した。

11月15日、オムスクはボルシェビキ軍の包囲され、占領された。
コルチャック軍は橋を破壊して退却した。
拓川到着してわずか1ヶ月後のことである。

11月末、イルクーツクはコルチャック軍と反乱軍の戦場になった。
拓川と大井司令官は第5師団のイルクーツクへの派兵を命じた。

12月、拓川は連合国外交代表団会議を連続しつつ、居留民の引揚に尽力したが鉄道スト等で進捗しなかった。

1920年1月9日、コルチャック政権が崩壊した。
1920年1月10日、イルクーツクを出発。
チタ~満州里~哈爾浜~奉天~京城~仁川で乗船。下関入港。
31日に帰京。ただちに首相及び外相と会談している。
2月3日、閣議に出席し「彼の地の状況並びに引揚の顛末」を報告した。
2月中に、天皇皇后に拝謁し、山県に報告し、西園寺邸で労われた。

原内閣は、3月
朝鮮・満洲に対するボルシュビキの脅威からの防衛のため、シベリア駐屯の基本方針を決定した。

1920年2月
尼港を占領中の日本軍が4.000人のパルチザン軍に包囲され降伏した。
3月、協定を破って奇襲攻撃を仕掛けた。副領事を始め兵士・居留民7.000人余が全滅した。
5月、日本の救援部隊を前に日本人捕虜・反革命派ロシア人全員の殺害に及んだ。
日本は報復措置として7月に北サハリンを占領した。

1920年4月、米国撤兵完了。
1920年夏、英仏伊も撤兵完了。
米英仏伊は「赤軍」と停戦協定を結んだ。

尼港事件は各国の対ソ経済封鎖解除が進行し、通商交渉が開始されていた時期に起こった。
日本に対しても、20年2月に対日講和を駐仏大使に打診されていた。
ところが、
軍司令官大井は、ウラジオ臨時政府(親ソ政権)に対して6ヶ条の要求を突きつけ、拒絶されると、ウラジオを占領し、
沿海州の革命軍7.000人の武装解除を行った。

1920年9月、拓川は大使の任を解かれた。

1922年10月25日、日本軍のシベリアからの撤兵完了。
1925年、北サハリン撤兵。

日本は各国間で孤立化を深めた。
侵略開始から7年間に及び、敗北に終わった。

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