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しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

米騒動⑤小田郡笠岡町その3

2020年06月28日 | 大正
「笠岡史談第13号」昭和50年 木下タイプ発行 より転記

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(県警の禁止令で)
では、その新聞に載らなかった事実を、古老に聞いてみよう。

安那氏(77才)
私が21才の時でした。
西本町の篠井米店に、大勢押しかけているという事で、私も見物に行きました。
笠岡でもいつかは騒動があるだろうと、半ば期待のようなものがあったのでしょう。
今から思えば篠井さんも気の毒でした。
ちょうど悪い時に、立派な家を新築したばかりで、群衆のねそみも強かったのかも知れません。
檜の分厚い雨戸を閉めている処へ、二、三人が石を抱えて来て、ドカンドカンと投げつけて、何枚か壊してしまいました。
見物人がだんだん増えて二百人にもなりましたでしょうか。
時の笠岡警察署長が、白服にアゴ紐掛けた巡査を連れて駆けつけてきましたが、専ら低姿勢で、
皆さんお静かに、お静かに願います、と必死で押さえようとしていました。
日頃”天神”と称するヤクザがいて、その晩、群衆の代表なような形で上がり込み、平身低頭している篠井さんに威丈高になって、文句を言っていました。
腕まくりして群衆に向かい、”お前らの気に入るようにしてやるから待っとれいょ”と肩をそびやかせていたので、覚えています。

小見山氏(77才)
私は敷紡に勤めだしたばかりでした。
昼前だと思うが、
「米騒動だ」というので、正門の前に出てみると、駅の東、陸橋の下の辺に、田中という米屋があって、ワァワァと人声がする。
店の中には、沖仲仕のバンジーと称する豪傑がいて、土間にある箱の中から桶にすくっては、表の道路へバァーと振り撒く。
見物人は手を叩くもの、もっとやれいとけしかけるもの、中には女の人なぞが、チョコチョコ走ってきては、米を拾って逃げていく者もある。
どきどきして見ていました。

・・・

天神を軽薄と呼ぶなかれ、彼には体面や保身を思う利己心がないのである。
我が身のことを忘れて乗り出してゆく侠気がある。
壮士に価する。

バンジーは浜仲仕、祭りの時、船神輿の先導をやり、もどせ、もどせで評判の悪い店先や軒を引掛けてこわした。
叡山の荒法師の痛快さがある。

篠井米店襲撃の翌日、警察の要請で消防団が召集されようとしたが、ここに一人の反対者がいた。
古田という纏持ちで、召集に頑として応じない。
「米が高くて困る我々が、何で高くなることを喜ぶ連中の番をしれやらねばならんのだ」。
幸か不幸か、その晩何事もなかった。


笠岡町からは起訴者は1名、
天神が起訴され懲役5年だった。


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米騒動④小田郡笠岡町その2

2020年06月28日 | 大正
「笠岡市史第三巻」 笠岡市史編さん室編 平成8年 ぎょうせい発行

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笠岡の米騒動については、正確な動きは分からない。

『岡山県郡治誌』によると、
8月13日午後8時ごろ、
「笠岡町民は町内の寺院に集合して、その数600名700名に及び、
警察署長の説諭に服さず、米商7戸を襲って米の廉売を強要して瓦礫を投げて表戸を破壊するなどの暴行をして
午前5時に引き揚げた」とある。

『岡山県警察史』にも、
同一記事が載っている。

『岡山県史近代Ⅱ」によると、
8月13日午後12時「群衆約150名其家に押し寄せ、門戸を乱打して之を開かしめたるうえ、店内乱入し素麺・うどんの廉売を強要し、
更に其肥料商を襲い白米の廉売及び金員の寄付を迫り之を承諾」させた。

小田郡神島内村、同外村では、
両村精錬所煙害地被害民が、米価高騰を機として大挙して工場長・副工場長宅を襲撃せんと、
15日夜9時ごろ日光寺の梵鐘を乱打し、鴨野に集合し、(山陽新報8月19日)
群衆2.000人がこれに加わり喧噪となった。
工場側は数百名を出して警戒、笠岡警察署も現場に急行し、鎮撫に努めたので群衆は解散したと記されている。

山陽新報8月25日の記事、
「笠岡町では8月13日、さっそく白米廉売を始めた。
笠岡町は、町の事業として白米一升20銭にて廉売すること、これが救済基金1万円は、町内有志よりの寄付金をもって充当することに決せり。
小田郡笠岡町にては、米騒動も平穏に服し、戎座(のちの大和座)にては、21日より演劇し、付近の村落にては盛んに盆踊りの行われて活気を呈せり」としている。


8月13日から21日まで、なぜ新聞に書かれなかったか。
それは岡山県警察著長名で「掲載一切禁止、掲載したる場合は直ちに差押」禁令を出していたからである。


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米騒動③小田郡笠岡町その1

2020年06月28日 | 大正

「岡山県社会運動史第三巻」水野秋著


8月13日夜、
小田郡笠岡町では遍照寺に数百人の群衆が集まった。
暗闇の中で米商人の不当を糾弾する演説の後、「篠井へ行け」という声がかかった。

西本町の篠井米店は笠岡で一二を争う大きな米穀商で、それに向かい大群衆が動き出した。
闇の中で提灯を持つのは笠岡警察署長の岩崎ひとり。
笠岡は大丈夫だろうと、児島味野の応援に出勤していた。
群衆に取り囲まれ岩崎は篠井米店へ運ばれた。
篠井米店の大戸は、呼べど叩けど開かなかった。
そのうち数人の冲仕風の男が店の大八車を引っ張ってきて勢いよく大戸へぶつけたところ、
たまりかねたように内部から開き、主人が出て平身低頭した。
その主人に語気鋭く、麦稈真田の仲買人を営む赤木佐太郎、通称「天神」と呼ばれるやくざ者が、廉売を要求した。
怒りに燃える群衆に、すっかり呑み込まれ、おびえきった篠井の主人は在庫量と廉売の約束をした。

「次はヒゲ田中じゃ」
の一声で、群衆は笠岡駅東側にある田中米店へ向かった。
ところがヒゲ田中主人は頑固で、容易に首を縦に振らなかった。
今度は、「天神」にかわって通称「ばん爺ィ」こと定兼伴次郎という浜仲仕が飛び出し、
店先に置いている米はむろん麦、豆類までかたっぱし桶ですくい路上にばらまき、群衆の歓声を浴びた。

「つぎは仁王堂の村上じゃ」
と、一夜のうちに数件の米屋が襲われた。

「天神」とか「ばん爺ィ」とか、やくざ沖仕が騒ぎの先頭に立ったのが笠岡の特徴であった。

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米騒動②富山・京都・名古屋・阪神・田川~内閣退陣

2020年06月28日 | 大正
「大正時代」 永沢道雄著 光人社 2005年発行 より転記

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富山県の出来事は新聞に詳しく報道され、富山市や県内各地に伝染し、全国に波及してゆく。
まっさきに反応したのは8月8日、岡山県真庭郡落合町。
規模が大きく、深刻な衝撃をもたらしたのは、名古屋と関西の大都市での騒動である。

京都
8月10日夜、
京都では”細民”層の死活問題となってきた。
下京区柳原の住民が400人、「米屋をやっつけろ」と丸太やこん棒を手に押し出し、一行はみるみる千人近くふくらんだ。
つぎつぎに米屋に押し込む。
検事と警官隊が出動し、柳原町一帯は戦場のようになった。
8月11日、
西陣方面では、織物工ら2.000人が北野天満宮から「米を下げろ」と市中を練り歩いた。
夜になると、あちこちの町で窮民がそれぞれ押し出し、混乱が全市に及んだ。
午後10時、知事の請求で騎兵と歩兵連隊から170人の軍隊が出た。午前0時やっと群衆が退散した。
8月12日、
前日よりもさらに不穏となった。一部の市街地は戸を閉め、無政府状態のありさま。
京都府警は「夜間外出するものは暴民とみなす」と布告。
市内各所に外米の廉売市場ができて鎮静にむかった。


名古屋
8月10日夜、鶴舞公園に5千から3万といわれる人たちが集まり、警官隊と衝突があった。
11日~12日、事態は悪化。
警官は抜剣、群衆は瓦を投げて争闘す。


大阪
8月11日夜、
天王寺公会堂で米価調整大会、参加3.000人。
その夜、今宮などで米屋がかたっぱしから襲われる。警察が介入。
8月12日夜、から13日。
騒動は暴動に展化、軍隊が出て来た。


神戸
8月12日三菱造船所の労働者が、構内で暴れ始めた。会社支給の米価が1.5倍になったのが原因。
その夜、群衆と野次馬が鈴木商店へ殺到して放火・全焼させた。
神戸市内は無政府状態。放火・略奪が横行する。
8月13日も、夕方から騒動。刀をもった者もいて警察や軍隊と闘争して双方に死傷者多数。1人死亡。
8月15日ごろ平穏になった。


福岡県田川
8月17日から宇部炭鉱を皮切りに、北九州・熊本県の各炭鉱で暴動が続発した。
宇部では炭鉱王の代議士宅が放火され、階級闘争の過激化を思わせた。
軍隊が射撃し、死者15人を出した。
田川では、労働者がダイナマイトを投げつけ、軍隊が撃ち返し1人死んだ。
その頃の炭鉱夫は、
過酷な労働の見本のように見られていた。
彼らが米価の騰貴に憤るのも無理はなかった。


米騒動は、革命前夜のペトログラードに似てなくもないが、民衆をリードする政治勢力や意識なかった。
9月中旬の熊本県万田炭鉱の暴動で、米騒動は終結した。

参加人員数百万、軍隊10万以上、検挙者25.000人以上。
近代日本で最大規模のこの騒乱が、政治的結果をおよぼさないはずはなかった。

 
寺内内閣はシベリア出兵で東京6紙、地方紙50の新聞を発禁した”実績”がある。
水野錬太郎内相は8月14日夜、米騒動の一切の記事の掲載を禁止すると通告した。
「新聞記事は治安維持の妨害あるものと認めた次第である」。
元老山県は、
とても寺内にやらせておくわけには行かない。
9月27日、初めて衆議院議員が首相になる。
政党首領の首相が任命された。


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米騒動①”富山の女一揆”

2020年06月28日 | 大正
「日本の歴史14巻 いのちと日本帝国」 小松裕著 小学館 2009年発行

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「東京朝日新聞」の米騒動の初報は、1918年(大正7)8月5日である。
「200名の女房連が米価高騰で大運動を起こす」という見出しで、
富山県中新川軍西水橋町で起こった8月3日夜の騒動の模様を報道した。
この報道を皮切りに、西水橋・東水橋・滑川町の騒動が連日とりあげられた。
富山の米騒動を全国紙が詳しく報道したことが、米騒動の全国的拡大に大きな役割を果たした。

8月9日には、
名古屋・京都・大阪・兵庫・高松・愛媛でも騒動が発生、
その後西日本を中心に軍隊を出動させて鎮圧にあたらざるをえないほどの激しい騒動となった。

炭鉱や鉱山、工場でも賃金値上げと共に米価引き下げが要求され、ストライキが発生して、一部は暴動化した。
舞鶴では海軍工廠の職工2.000余名が町民と共に精米所などを襲撃している。
被差別民や朝鮮人労働者も騒動に参加した。
当局の推定で全国70万人以上が参加、検挙者8.185人、そのうち起訴7.708人。
下層民衆がほとんどであったが、特に被差別民が狙い撃ちにされた。

米騒動の発祥地となった富山県では、明治初期より「バンドリ騒動」に象徴される米騒動が多発していた。

米騒動の基本は、集団の圧力による廉売強制にあった。
価格は、一升25銭というのがもっとも多い要求であった。
これは、ほぼ前年の価格であった。
これが米騒動前には一升50銭まで急騰したのである。

米などの略奪の例はきわめて少ない。
25銭払って一粒残らず買い取っていくのが普通である。
人びとは
「適正価格」をもっており、高い値段は「不正」であると意識していた。
米商などの「徳義(モラル)」を要求したのである。
集団の圧力で権力の代執行であり、正当な行動であるとした。

1918年9月21日、寺内正毅内閣は、米騒動の責任をとって総辞職した。
(デモクラシー運動にもより)
1925年、25歳以上の男子普通選挙法が成立した。
それが民衆の制裁暴力の発動を抑制する装置として機能していったことは間違いない。

男子たちには「一票」が与えられ、暴力ではなく選挙権で意思表示するのが国民の義務とされた。

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