所在地=函館市船見町3番8号(こうさいえん)
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安政4(1857)年、名主で慈善家として知られた堺屋新三郎が、箱館奉行から
約3,770㎡の土地の払い下げを受け、庵とともに各地の名花、名木を集め、美しい
庭園を造った。
これは住民にも解放され、箱館一の名園として親しまれた。
咬菜とは粗食のこと。五稜郭の設計・監督にあたった武田斐三郎が名付けた。
明治2(1869)年3月4日、蝦夷地を占拠していた旧幕府脱走軍(榎本軍)に追討令が下り、新政府軍艦隊は品川から出航した。
これを聞きつけた榎本は、3月14日、幹部6人とともに、この咬菜園に集まり、今宵が最後の宴とし飲み、かつ詩を吟じた。
この中に箱館奉行並で俳人の中島三郎助(元は浦賀・与力でぺりー来航時には応接係を務めた)もいて
「ほととぎす われも血を吐く思い哉」
「われもまた 死土で呼ばれん 白牡丹」の句をこの時詠んでいる。
今、庭園前の道路から五稜郭方向を眺めると真っ白いタワーがあって、目印となるが、当時は野原の中に大きな五稜の姿が見えたに違いない。
翌朝、馬を走らせ帰営する幹部の姿が浮かぶ。
旗艦・開陽丸をも失い、津軽海峡を制海できなくなった榎本軍、悲痛な覚悟があったかも知れない。
現在は個人の住宅地になっているので、見学時にはマナーを忘れないようにしたいもの。
ミカエル